>   論語   >   子張第十九   >   23

子張第十九 23 叔孫武叔語大夫於朝章

494(19-23)
叔孫武叔、語大夫於朝曰、子貢賢於仲尼。子服景伯、以告子貢。子貢曰、譬之宮牆、賜之牆也及肩。闚見室家之好。夫子之牆數仞。不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富。得其門者或寡矣。夫子之云、不亦宜乎。
しゅくそんしゅくたいちょうかたりていわく、こうちゅうよりまされり。ふくけいはくもっこうぐ。こういわく、これ宮牆きゅうしょうたとうれば、しょうかたおよぶ。しっきをうかがる。ふうしょう数仞すうじんなり。もんらざれば、そうびょうひゃくかんとみず。もんものあるいはすくなし。ふうえること、むべならずや。
現代語訳
  • (魯の家老の)叔孫武叔が、ほかの家老と御殿で話した ――「子貢は孔さんよりえらいです」と。子服景伯が、それを子貢に知らせる。子貢 ――「それをヘイにたとえると、わたしのヘイは肩ぐらいだから、家のなかのいいところがのぞけます。先生のヘイはなん十尺だから、門をみつけてはいらなければ、お宮のみごとさも、役人の多いこともわかりません。門をみつける人は、いくらもないでしょう。叔孫さまがそういわれたのも、もっともではありませんか。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • たいしゅくそんしゅくが、朝廷での大夫仲間の雑談の際、「こうは師匠のちゅうよりすぐれている。」と言った。どうりょうふくけいはくが後にそのことを子貢に告げたところ、子貢の言うよう、「飛んでもない話です。先生と私とはまるで人物のけたが違います。殿てんへいたとえてみますと、私の塀はヤット人の肩に届くくらいですから、へいしに中のさくの小ぎれいなのが見えます。ところが先生の塀は高さすうじょう〔一丈は約三メートル〕ですから、入口の門をさがしあててそこから入らなくては、その中のたまの美しさ、そこに百官がそでをつらねた盛んな光景を見ることができません。そしてその門に入り得る人が事によると少ないのですから、叔孫武叔がさように言われるのも、無理からぬことではありませんか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • しゅくそんしゅくが朝廷で諸大夫に向っていった。――
    こうちゅう以上の人物だと思います」
    ふくけいはくがそのことを子貢に話した。すると子貢はいった。――
    「とんでもないことです。これを宮殿の塀にたとえてみますと、私の塀は肩ぐらいの高さで、人はその上から建物や室内のよさがのぞけますが、先生の塀は何丈という高さですから、門をさがしあてて中にはいってみないと、たまの美しさや、文武百官の盛んなよそおいを見ることができないのです。しかし、考えてみると、その門をさがしあてるのが容易ではありませんので、大夫がそんなふうにいわれるのも、あるいは無理のないことかもしれません」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 叔孫武叔 … 魯の大夫。名は州仇。武叔はそのおくりな。ウィキペディア【叔孙州仇】(中文)参照。
  • 大夫 … ここでは同僚の大夫たち。
  • 朝 … 朝廷。
  • 子貢 … 前520~前446。姓は端木たんぼく、名は。子貢はあざな。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。ウィキペディア【子貢】参照。
  • 仲尼 … 孔子のあざな
  • 子服景伯 … 魯の大夫。姓は子服、名は。景はおくりな。伯はあざな。孟献子の玄孫。ウィキペディア【子服景伯】(中文)参照。
  • 宮牆 … 垣根。塀。
  • 賜之牆 … 私の塀。「賜」は、子貢の名。
  • 室家 … 住まい。建物。家。
  • 好 … いいところ。美しさ。
  • 闚見 … 門のすきまからこっそりのぞき見る。
  • 夫子之牆 … 先生の塀。夫子は、孔子を指す。
  • 仞 … 七尺または八尺。ウィキペディア【】参照。
  • 宗廟 … 先祖の廟。
  • 百官 … 多くの役人。
  • 夫子之云 … あの方がそう言われるのも。「夫子」は、叔孫武叔を指す。
  • 不亦宜乎 … 無理からぬことでございましょう。
補説
  • 『注疏』に「此の章も亦た仲尼の徳を明らかにするなり」(此章亦明仲尼之德也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 叔孫武叔、語大夫於朝曰 … 『集解』に引く馬融の注に「魯の大夫の叔孫州仇なり。武は、謚なり」(魯大夫叔孫州仇也。武、謚也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「武叔みずから是れ大夫なり。又た他の大夫に朝廷に語り、以て孔子を説くなり」(武叔身是大夫。又語他大夫於朝廷、以説孔子也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「叔孫武叔は、魯の大夫なり。時有りて諸大夫に朝中に告げ語りて曰く」(叔孫武叔、魯大夫。有時告語諸大夫於朝中曰)とある。また『集注』に「武叔は、魯の大夫、名は州仇」(武叔、魯大夫、名州仇)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人えいひとあざなは子貢、孔子よりわかきこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁をしりぞく」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、あざなは子貢、衛人。口才こうさい有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 子貢賢於仲尼 … 『義疏』に「此れ語ぐる所の事なり。言うこころは子貢の人才識量孔子より賢れるなり」(此所語之事也。言子貢人才識量賢於孔子也)とある。また『注疏』に「子貢の賢才は仲尼より過ぐ、と」(子貢賢才過於仲尼)とある。
  • 子服景伯、以告子貢 … 『義疏』に「景伯も亦た魯の大夫なり。当に是れ時に朝に在るべし。叔孫の語を聞きて、故に来たりて子貢に告げて之をうなり」(景伯亦魯大夫。當是于時在朝。聞叔孫之語、故來告子貢道之也)とある。また『注疏』に「景伯も亦た魯の大夫、子服なり。武叔の言を以て之を子貢に告ぐるなり」(景伯亦魯大夫、子服何也。以武叔之言告之子貢也)とある。
  • 子貢曰、譬之宮牆 … 『義疏』に「子貢は景伯の告ぐるを聞くも、亦た驚距せず。仍ち之が為に譬えを設くるなり。言うこころは人の器量は各〻深浅有り。深き者は見難く、浅き者は易し。譬えば居家の宮牆有るが如し。牆高ければ、則ちかんして測る所に非ず。牆ひくければ、闚闞すること了し易し。故に云う、之を宮牆に譬う、と」(子貢聞景伯之告、亦不驚距。仍爲之設譬也。言人之器量各有深淺。深者難見、淺者易覩。譬如居家之有宮牆。牆高、則非闚闞所測。牆下、闚闞易了。故云、譬之宮牆也)とある。また『注疏』に「子貢武叔の己仲尼よりまさると言うを聞く。此れ君子の道は小知す可からざるに由る、故に武叔に此の言有るを致す。乃ち之が為に喩えを挙げて曰く、譬えば人居の宮の如し、四囲に各〻牆有り」(子貢聞武叔之言己賢於仲尼。此由君子之道不可小知、故致武叔有此言。乃爲之舉喩曰、譬如人居之宮、四圍各有牆)とある。
  • 譬之宮牆 … 『義疏』では「譬諸宮牆」に作る。
  • 賜之牆也及肩 …『義疏』に「賜は、子貢の名なり。子貢自ら言う、賜の識量の短浅、肩に及ぶの牆の如きなり、と」(賜、子貢名也。子貢自言、賜之識量短淺、如及肩之牆也)とある。また『集注』に「牆はひくく室は浅し」(牆卑室淺)とある。
  • 闚見室家之好 … 『義疏』に「牆既に肩に及ぶ。故に他人牆外に従い行くも、牆内の室家の好きを闚い見るを得るなり」(牆既及肩。故他人從牆外行、得闚見牆内室家之好也)とある。また『注疏』に「牆のひくければ、則ち其の内に在るの美を闚い見る可きこと、猶お小人の道の以て小知す可きがごときなり。牆の高ければ、則ち内に在るの美を闚い見る可からざること、猶お君子の道の小知す可からざるがごときなり。今賜の牆やわずかに人肩に及べば、則ち人は牆内の室家の美好を闚い見る」(牆卑、則可闚見其在内之美、猶小人之道可以小知也。牆高、則不可闚見在内之美、猶君子之道不可小知也。今賜之牆也纔及人肩、則人闚見牆内室家之美好)とある。
  • 夫子之牆数仞 … 『集解』に引く包咸の注に「七尺を仞と曰うなり」(七尺曰仞也)とある。また『義疏』に「七尺を仞と曰う。言うこころは孔子の聖量の深きこと、数仞の高き牆の如きなり」(七尺曰仞。言孔子聖量之深、如數仞之高牆也)とある。また『注疏』に「夫子の牆は、高きこと乃ち数仞なり。七尺を仞と曰う」(夫子之牆、高乃數仞。七尺曰仞)とある。また『集注』に「七尺を仞と曰う」(七尺曰仞)とある。
  • 不得其門而入、不見宗廟之美、百官之富 … 『義疏』に「牆既に高峻なれば、闚闞す可からず。唯だ門より入る者のみ乃ち内を見るを得。若し門に入らざれば、則ち其の所内の美を見ざるなり。然して牆の短下なる者は、其の内だ室家有るのみ。牆の高深なる者、故に広くして宗廟百官を容るること有るなり」(牆既高峻、不可闚闞。唯從門入者乃得見内。若不入門、則不見其所内之美也。然牆短下者、其内止有室家。牆高深者、故廣有容宗廟百官也)とある。また『注疏』に「若し人其の門を得て入らざれば、則ち宗廟の美備、百官の富盛を見ざるなり」(若人不得其門而入、則不見宗廟之美備、百官之富盛也)とある。また『集注』に「其の門に入らざれば、則ち其の中の有る所を見ずとは、牆高くして宮広きを言うなり」(不入其門、則不見其中之所有、言牆高而宮廣也)とある。
  • 不得其門而入 … 『義疏』では「不得其門而入者」に作る。
  • 得其門者或寡矣 … 『義疏』に「富貴の門、賤しき者軽〻しく入るに非ず。入る者は唯だ富貴の人のみ。孔子は聖人の器量の門、ぼんの至る可きに非ず。至る者は唯だ顔子のみ。故に云う、門を得るもの或いは寡なし、と。寡は、少なり」(富貴之門、非賤者輕入。入者唯富貴人耳。孔子聖人器量之門、非凡鄙可至。至者唯顏子耳。故云、得門或寡。寡、少也)とある。また『注疏』に「言うこころはの聖のしきいは凡の及ぶ可きに非ず、故に其の門を得て入る者は或いは少なし」(言夫聖閾非凡可及、故得其門而入者或少矣)とある。
  • 夫子之云、不亦宜乎 … 『集解』に引く包咸の注に「夫子は、武叔を謂うなり」(夫子、謂武叔也)とある。また『義疏』に「子貢は武叔を呼びて夫子と為すなり。賤者は富貴の門に入るを得ず。愚人は聖人の奥室に入るを得ず。武叔は凡愚にして、賜は孔子よりまされりと云う。是れ其れ聖門に入らずして、此の言有り。故に是れ其れ宜なり。袁氏云う、武叔は凡人、応に聖に達せざるべきなり、と」(子貢呼武叔爲夫子也。賤者不得入富貴之門。愚人不得入聖人之奥室。武叔凡愚、云賜賢於孔子。是其不入聖門、而有此言。故是其宜也。袁氏云、武叔凡人、應不達聖也)とある。また『注疏』に「夫子は、武叔を謂う。此れを以て之を論ずれば、即ち武叔の子貢は仲尼よりまされりと云うも、亦た其れ宜なり、怪しむに足らざるなり」(夫子、謂武叔。以此論之、即武叔云子貢賢於仲尼、亦其宜也、不足怪焉)とある。また『集注』に「此の夫子は、武叔を指す」(此夫子、指武叔)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「人の道に於ける、造詣浅き者は、人皆得て知る可し。造詣甚だ深きときは、則ち其の人に非ざれば、以て知ること能わず。故に曰く、聖人は能く聖人を知る、と。故に子貢武叔の言に於いて、之を非とせずして之を宜なりとす。蓋し以て聖人の知り難きことを言うなり」(人之於道、造詣淺者、人皆可得而知焉。造詣甚深、則非其人、不能以知焉。故曰、聖人能知聖人也。故子貢於武叔之言、不非之而宜之。蓋以言聖人之難知也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「其の門を得て入らずんば、宗廟の美百官の富を見ず。まことなるかな是の言。七経しちけい具存す。千載せんざい学者聖人の道を知らざるは、亦た其の門を得て入らざるが故のみ。近世の諸老先生多く孟子を以て論語を解するも、亦た未だ孟子は外人と争うことを知らざる者なり。豈に以て門内の言を解するに足らんや。其の経を解するは、皆理を以てして道を以てせず。宗廟の美百官の富を見ずと謂う可きのみ。其の心を四書に専らにして六経をこつりゃくにするも、亦た是れに坐する故のみ」(不得其門而入、不見宗廟之美百官之富。誠哉是言。七經具存。千載學者不知聖人之道、亦不得其門而入故耳。近世諸老先生多以孟子解論語、亦未知孟子與外人爭者也。豈足以解門内之言乎。其解經、皆以理而不以道。可謂不見宗廟之美百官之富已。其專心四書而忽略六經、亦坐是故耳)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十