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子張第十九 6 子夏曰博學而篤志章

477(19-06)
子夏曰、博學而篤志、切問而近思。仁在其中矣。
子夏しかいわく、ひろまなびてあつこころざし、せついてちかおもう。じんうちり。
現代語訳
  • 子夏 ――「ひろく学んで、目標をさだめ、こまかにしらべて、経験とてらすのが、人間的なやりかただ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 子夏の言うよう、「仁に志す者は、まずひろく学ばねばならぬ。しかし博く学んでもそれを実行に移す志があつくなくては、何の役にも立たぬ。また学ぶに当って疑いが起ったならば、熱心に師友に質問して完全に理解することを期すべく、またいたずらに心を高遠こうえんの理想にのみすることなく、ぢかの実際問題に引き当ててあんふうすることを要する。この博学はくがくとく切問せつもんきんは、それがただちに仁とはいえないが、それによってのみ仁に達し得るのである。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子夏がいった。――
    「ひろく学んで見聞をゆたかにし、理想を追求して一心不乱になり、疑問が生じたら切実に師友の教えを求め、すべてを自分の実践上の事として工夫するならば、最高の徳たる仁は自然にその中から発展するであろう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子夏 … 前507?~前420?。姓はぼく、名は商、あざなは子夏。衛の人。孔子より四十四歳年少。孔門十哲のひとり。「文学には子游・子夏」といわれ、子游とともに文章・学問に優れていた。ウィキペディア【子夏】参照。
  • 博学 … 広く学ぶ。
  • 篤志 … 熱心に志す。
  • 切問 … 真剣に問いただす。
  • 近思 … 物事を身近な問題に当てはめて考える。
  • 在其中矣 … (仁は)自然にその中から生まれてくる。
補説
  • 『注疏』に「此の章は学を好むは仁に近きを論ずるなり」(此章論好學近於仁也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子夏 … 『孔子家語』七十二弟子解に「卜商は衛人えいひとあざなは子夏。孔子よりわかきこと四十四歳。詩を習い、能く其の義に通ず。文学を以て名を著す。人と為り性弘からず。好みて精微を論ず。じん以て之にくわうる無し。嘗て衛に返り、史志を読る者を見る。云う、晋の師、秦を伐つ。さん河を渡る、と。子夏曰く、非なり。がいのみ。史志を読む者、これを晋の史に問う。果たして己亥と曰う。是に於いて衛、子夏を以て聖と為す。孔子しゅっして後、西河のほとりに教う。魏の文侯、之に師事して国政をはかる」(卜商衞人、字子夏。少孔子四十四歳。習於詩、能通其義。以文學著名。爲人性不弘。好論精微。時人無以尚之。嘗返衞見讀史志者。云、晉師伐秦。三豕渡河。子夏曰、非也。己亥耳。讀史志者、問諸晉史。果曰己亥。於是衞以子夏爲聖。孔子卒後、教於西河之上。魏文侯師事之、而諮國政焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「卜商あざなは子夏。孔子よりわかきこと四十四歳」(卜商字子夏。少孔子四十四歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 博學而篤志 … 『集解』に引く孔安国の注に「広く学びて厚く之をるなり」(廣學而厚識之也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。なお、底本には「之」の字がないので補った。また『義疏』に「亦た学を勧むるなり。博は、広なり。篤は、厚なり。志は、識なり。言うこころは人当に広く経典を学ぶべくして深く厚く之を識録して忘れざるなり」(亦勸學也。博、廣也。篤、厚也。志、識也。言人當廣學經典而深厚識録之不忘也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「博は、広なり。篤は、厚なり。志は、識なり。言うこころは広く学びて厚く之を識り、忘れざらしむ」(博、廣也。篤、厚也。志、識也。言廣學而厚識之、使不忘)とある。
  • 切問而近思 … 『集解』の何晏の注に「切に問うとは、切に己の学びて未だ悟らざる所の事を問うなり。近く思う者、近く己の能く及ぶ所の事を思うなり。ひろく未だ学ばざる所を問い、遠く未だ達せざる所を思わば、則ち習う所の者に於いてくわしからず、思う所の者に於いて解せざるなり」(切問者、切問於己所學而未悟之事也。近思者、近思於己所能及之事也。汎問所未學、遠思所未逹、則於所習者不精、於所思者不解也)とある。また『義疏』に「切は、猶お急のごときなり。若し未だ達せざる所の事有れば、宜しく急ぎ諮問して解を取るべし。故に云う、切に問うなり、と。近く思うとは、若し思う所有れば、則ち宜しく己すでに学ぶ所の者を思うべし。故に曰く、近く思うなり、と」(切、猶急也。若有所未達之事、宜急諮問取解。故云、切問也。近思者、若有所思、則宜思己所已學者。故曰、近思也)とある。また『注疏』に「切に問うとは、親切に己の学びて未だ悟らざる所の事を問い、汎濫して之を問わざるなり。近く思うとは、己の未だ及ぶこと能わざる所の事を思い、遠くは思わざるなり。若し汎く未だ学ばざる所を問い、遠く未だ達せざる所を思わば、則ち習う所の者に於いてくわしからず、思う所の者は解けず」(切問者、親切問於己所學未悟之事、不汎濫問之也。近思者、思己所未能及之事、不遠思也。若汎問所未學、遠思所未達、則於所習者不精、所思者不解)とある。
  • 近思 … 朱子と呂祖謙が編纂した名著『近思録』の書名は、ここから来ている。ウィキペディア【近思録】参照。
  • 仁在其中矣 … 『義疏』に「如上の事を能くせば、未だ是れ仁ならずと雖も、而れども方に能く仁と為す可し。故に曰く、仁其の中に在り、と」(能如上事、雖未是仁、而方可能爲仁。故曰、仁在其中矣)とある。また『注疏』に「仁者の性は純篤なり。今の学ぶ者は既に能く篤く志し近く思う。故に曰く、仁其の中に在り、と」(仁者之性純篤。今學者既能篤志近思。故曰、仁在其中矣)とある。また『集注』に「四者は皆学問思弁の事のみ。未だ力行して仁を為すに及ばざるなり。然れども此に従事すれば、則ち心は外に馳せずして、存する所自ら熟す。故に曰く、仁其の中に在り、と」(四者皆學問思辨之事耳。未及乎力行而爲仁也。然從事於此、則心不外馳、而所存自熟。故曰、仁在其中矣)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く程顥の注に「博く学びて篤く志し切に問いて近く思う。何を以て仁其の中に在りと言うか。学者思いて之を得んことを要す。此を了すれば便ち是れ徹上徹下の道なり」(博學而篤志切問而近思。何以言仁在其中矣。學者要思得之。了此便是徹上徹下之道)とある。
  • 『集注』に引く程顥の注に「学博からざれば、則ち約を守ること能わず。志篤からざれば、則ち力行すること能わず。己に在る者を切に問いて近く思えば、則ち仁其の中に在り」(學不博、則不能守約。志不篤、則不能力行。切問近思在己者、則仁在其中矣)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「近く思うとは、類を以て推すなり」(近思者、以類而推)とある。
  • 『集注』に引く蘇軾の注に「博く学べども志篤からざれば、則ち大にして成すこと無し。ひろく問いて遠く思えば、則ち労して功無し」(博學而志不篤、則大而無成。泛問遠思、則勞而無功)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「博く学べば則ち之を求むることやくわし。篤く志せば則ち之を信ずることや実なり。切に問えば則ち泛然はんぜんの患無し。近く思えば則ち遠きに馳するの弊無し。学能く此くの如くなれば、則ち以て之を仁と謂うに足らざると雖も、而も事を為すこと苟くもせず、必ず之を身に実にす。故に曰く、仁其の中に在り、と」(博學則求之也精。篤志則信之也實。切問則無泛然之患。近思則無馳遠之弊。學能如此、則雖不足以謂之仁、而爲事不苟、必實之於身。故曰、仁在其中矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「博く学んで篤くしるし、孔安国曰く、広く学んで厚く之をしるす、と。是れ志を訓じて記と為す。蓋し志は先にして学は後なるに、いま学を志より先にするが故に云うことしかり。朱註は殊に其の序を失す。従う可からず。切問、何晏曰く、切に己の学んで未だ悟らざる所の事を問う、と。未だ切字の義を見ず。近思、何晏曰く、己の未だ及ぶこと能わざる所の事を思う、と。非なり。程子曰く、己に在る者を切問近思す、と。亦た非なり。蓋し切問は、切磋の切の如し。ひょくせつして之を出だすを謂うなり。憤せざれば啓せず、せざれば発せずは、古えの教法なり。故に師の弟子に答うるは尽く之を言わず、思いて之を自得せしむ。ここを以て弟子の師に於ける、苟くも未ださとらざる所有れば、則ち言語を以て左右逼切し、以て其のこうの在る所を観る。宰我の井仁せいじん、子貢の衛君をたすくるの問いの如き皆然り。又た孔子曰く、管仲の器小なるかなの如きは、則ち或いは問うに倹を以てし礼を知るを以てす。豈に然らざらんや。後世に及んで、師其の言語をかまびすしくし、弟子のにわかに信ぜんことを欲して、古えの教法ほろぶ。朱子又た切磋の解を得ず、古言遂に考う可からざるのみ。近思は近きをゆるがせにせずして之を思うを謂うなり。舜のげんを察するが如し。師の答うる所、或いは卑近に似たりとおもう者も、亦た当に之を思いてゆるがせにせざるべきなり。仁其の中に在りは、孔子の是れ亦た政をるなりの意の如し。子夏は此の時仕えず、孔子に従いて学ぶ。学ぶ所は皆先王安民の道、故に其の自ら言うことくの如し。仁と学とは殊なり。然れども士の仁を世に行う所以の者は、必ず学に由って之を得。故に仁其の中に在りと曰う。後儒は仁を知らず、故に其の解皆之を失す。夫れ博く学んで篤くしるすときは、則ち先王の道挙ぐ可きなり。切に問うと近きも思うときは、則ち其のこれを身に蔵するを求むる所以の者至れり。孔子曰く、我仁を欲すればここに仁至るも、亦た此の意なり」(博學而篤志、孔安國曰、廣學而厚識之。是訓志爲記。蓋志先而學後、今先學於志故云爾。朱註殊失其序。不可從矣。切問、何晏曰、切問於己所學未悟之事。未見切字之義。近思、何晏曰、思己所未能及之事。非矣。程子曰、切問近思在己者。亦非矣。蓋切問、如切磋之切。謂逼切出之也。不憤不啓、不悱不發、古之教法也。故師之答於弟子不盡言之、使思而自得之。是以弟子之於師、苟有所未喩、則以言語左右逼切、以觀其意嚮所在。如宰我井仁、子貢爲衞君之問皆然。又如孔子曰、管仲之器小哉、則或問以儉以知禮。豈不然乎。及於後世、師聒其言語、欲弟子之遽信、而古之教法泯焉。朱子又不得切磋之解、古言遂不可考耳。近思謂不忽近而思之也。如舜察邇言。意師之所答、或似卑近者、亦當思之而不忽也。仁在其中矣、如孔子是亦爲政之意。子夏此時不仕、從孔子而學焉。所學皆先王安民之道、故其自言如是。仁與學殊。然士之所以行仁於世者、必由學而得之。故曰仁在其中矣。後儒不知仁、故其解皆失之。夫博學而篤志、則先王之道可擧也。切問近思、則其所以求藏諸身者至矣。孔子曰、我欲仁斯仁至、亦此意)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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子路第十三 憲問第十四
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子張第十九 堯曰第二十