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陽貨第十七 22 子曰飽食終日章

456(17-22)
子曰、飽食終日、無所用心、難矣哉。不有博弈者乎。爲之猶賢乎已。
いわく、くまでくらいてえ、こころもちうるところきは、かたいかな。博弈ばくえきなるものらずや。これすはむにまされり。
現代語訳
  • 先生 ――「たべてばかりいて、頭を使わないのは、こまったものだな。スゴロクとか碁とかがあるだろう…。あれでも、しないよりましだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「終日腹いっぱいたべてただぶらぶらしており、なんにも心を働かせないのも困ったものだ。双六すごろくとかとかいうものがあるではないか。あんなひまつぶしのしょうごとでも、何もしないよりはましじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』、原本には「子曰」部分の現代語訳がないので補った。)
  • 先師がいわれた。――
    「たらふく食ってばかりいて、終日ぼんやりしている人間ほど始末におえない人間はない。双六すごろくとか碁とかいうものもあるではないか。そんなつまらん遊びごとでも、何もしないよりは、まだしも取柄があるよ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 飽食 … 腹いっぱい食べること。
  • 終日 … 朝から晩まで。一日じゅう。
  • 無所用心 … 何も考えない。ぼんやりしている。
  • 難矣哉 … 困ったものだなあ。しようがないなあ。
  • 矣哉 … 「(なる)かな」と読み、「~だなあ」「~であることよ」と訳す。感嘆の意を示す。「矣」「矣夫」「矣乎」も同じ。
  • 博弈 … 「博」は、双六すごろく。「弈」は、囲碁。ここでは「ばくち」の意ではない。
  • 之 … 博弈を指す。
  • 賢乎已 … 何もしないよりはましだ。「賢」は、勝る。「乎」は、比較の意を示す前置詞で「~よりも」の意。「已」は「止」に同じ。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人の学ばざるをにくむなり」(此章疾人之不學也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 飽食終日、無所用心、難矣哉 … 『義疏』に「夫れ人若し飢寒くして足らずんば、則ち心情に期する所、衣食に期す。衣食に期せば、則ち他事を思慮するに暇無し。若し事無くして飽食終日なれば、則ち必ず思い計りて非法の事を為す。故に難いかなと云う。言うこころは難きこと為す処を以てするなり」(夫人若飢寒不足、則心情所期、期於衣食。期於衣食、則無暇思慮他事。若無事而飽衣食終日、則必思計爲非法之事。故云難矣哉。言難以爲處也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「言うこころは人飽くまで食らいて日を終え、善道に於いて心を用うる所無きは、則ち以て処を為し難きかな」(言人飽食終日、於善道無所用心、則難以爲處矣哉)とある。
  • 不有博弈者乎。為之猶賢乎已 … 『集解』の何晏の注(『注疏』では馬融の注とする)に「其の拠り楽しむ所無ければ、善く淫慾を生ずるが為なり」(爲其無所據樂、善生淫慾)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「博とは、十二棋対して擲采する者なり。奕は、囲棋なり。賢は、猶お勝のごときなり。已は、止なり。言うこころは若し飽食にして事無ければ、則ち必ず非法を為さんと思う。若し曾て是れ業無くして、能く棋奕有りて以て食をついやし日をれば、則ち猶お事無きに勝りて止まり住む者のごときなり」(博者、十二棊對而擲采者也。奕、圍棊也。賢、猶勝也。已、止也。言若飽食而無事、則必思爲非法。若曾是無業、而能有棊奕以消食采日、則猶勝無事而止住者也)とある。また『注疏』に「賢は、勝なり。已は、止なり。博は、説文に簙に作り、局戯なり。六箸十二棋なり。古え烏冑簙を作るとあり。囲棊之を奕と謂う。説文に弈は廾に従う。両手をそばだてて之を執るを言う。棊とは執る所の子、子を以て囲みて相殺す、故に之を囲棊と謂う。囲棊を弈と称するは、又た其の落弈の義を取ればなり。夫子其の飽食の人の拠りて楽しむ所無く、善く淫欲を生ずるが為に、故に之に教えて曰く、博弈の戯なる者有らずや。若し其れ之を為すは、猶お止むに勝るなり、と。此れに拠りて楽しみを為し、則ち淫欲を生ぜざらしめんと欲するなり」(賢、勝也。已、止也。博、説文作簙、局戲也。六箸十二棊也。古者烏冑作簙。圍棊謂之奕。説文弈從廾。言竦兩手而執之。棊者所執之子、以子圍而相殺、故謂之圍棊。圍棊稱弈者、又取其落弈之義也。夫子爲其飽食之人無所據樂、善生淫欲、故教之曰、不有博弈之戲者乎。若其爲之、猶勝乎止也。欲令據此爲樂、則不生淫欲也)とある。また『集注』に「博は、局戯なり。弈は、囲棋なり。已は、止むなり」(博、局戲也。弈、圍棊也。已、止也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『集注』に引く李郁の注に「聖人は人に博弈を教うるに非ざるなり。甚だしく心を用うる所無きことの不可なるを言う所以なるのみ」(聖人非教人博弈也。所以甚言無所用心之不可爾)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ心を用いざるの甚だ不可なることを言うなり。博弈を取るに非ざるなり。孟子曰く、飽くまで食らいあたたかに、逸居して教え無ければ、則ち禽獣に近し、と。亦た心を用いる所無きを以て、之を禽獣に比するなり」(此言不用心之甚不可也。非取博弈也。孟子曰、飽食煖衣、逸居而無教、則近於禽獸。亦以無所用心、比之禽獸也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「孔子は善く人情を識ると謂う可きのみ。礼楽の教えも、亦た此の意有り。博は、局戯にして、双陸すごろく・格五の類の如し。奕は、囲碁なり。孔子の此の語は、必ず為にする所有りて之を言う。今老いてせい無き者、或いは此れを以て日を消し、或いは念珠を持して仏を称せば、必ず孔子の心に合せん。然らざるときは、皆拠って楽しむ所無く、善く淫欲を生ずるなり。相伝うらく丹朱たんしゅ愚なれば、堯碁を作りて之に教うと。或いは以為おもえらく舜しょうきんに教うと。予則ち謂えらく豈に是の事無からんや。其の朱・均を処するは、必ず当に舜の象に於けるが如くなるべきのみ。有司をして其の国政を治めしむるときは、則ち朱・均たる者、宜しく事を事とすること無かるべし。事を事とすること無きときは、則ち拠って楽しむ所無く、善く淫欲を生ぜん。故に之に奕を教えて以て其の心を制するも、亦た或いは聖人の術然らん。後世賭博の盛んに行われてよりして、諸老先生之を解することを難んじ、乃ち心を用うる所無きの不可を甚言すと謂うのみ。余を以て之を観るに、博奕は猶お静坐けいする者にまさるのみ」(孔子可謂善識人情已。禮樂之教、亦有此意。博、局戲、如雙陸格五類。奕、圍碁也。孔子此語、必有所爲而言之。今老而無世務者、或以此消日、或持念珠稱佛、必合於孔子之心。不然者、皆無所據樂、善生淫欲也。相傳丹朱愚、堯作碁教之。或以爲舜教商均。予則謂豈無是事哉。其處朱均、必當如舜於象巳。使有司治其國政、則爲朱均者、宜無事事焉。無事事、則無所據樂、善生淫欲。故教之奕以制其心、亦或聖人之術然焉。自後世賭博盛行、而諸老先生難解之、乃謂甚言無所用心之不可爾。以余觀之、博奕猶勝於靜坐持敬者已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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