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陽貨第十七 9 子曰小子何莫學夫詩章

443(17-09)
子曰、小子何莫學夫詩。詩可以興、可以觀、可以羣、可以怨。邇之事父、遠之事君。多識於鳥獸草木之名。
いわく、しょうなんまなぶこときや。もっおこく、もっく、もっぐんく、もっうらし。これちかくしてはちちつかえ、これとおくしてはきみつかう。おお鳥獣ちょうじゅう草木そうもくる。
現代語訳
  • 先生 ――「若い人たちはなぜ詩をならわないんだろう。詩は心をかき立て、ものを見きわめさせ、人びとをまとまらせ、世をうらませもする。身近では父につかえ、やがては君につかえさせる。鳥・けものや草・木の名もいろいろおぼえられる。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「若者どもよ。なぜあの詩を学ばないのか。詩というものは、人の心を感奮かんぷんこうさせ、人情風俗・らん興亡こうぼうを観察させ、衆人と群れてやわらぎ楽しませ、人をうらまつりごとを怨むにも上品に怨ませる。そして家においては親につかえ、国においては君に仕うることまで、すべて詩によって感得かんとくされる。その上に多く鳥獣草木の名をるという効用こうようまであるぞよ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師が門人たちにいわれた。――
    「お前たちはどうして詩経を学ぼうとしないのか。詩は人間の精神にいい刺戟を与えてくれる。人間に人生を見る眼を与えてくれる。人とともに生きるこころを培ってくれる。また、怨み心を美しく表現する技術をさえ教えてくれる。詩が真に味わえてこそ、近くは父母に仕え、遠くは君に仕えることもできるのだ。しかも、われわれは、詩をよむことによって、鳥獣草木のような自然界のあらゆるものに親しむことまでできるのではないか」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 小子 … 諸君。お前たちよ。先生が門人に呼びかける言葉。
  • 詩 … 『詩経』。ウィキペディア【詩経】参照。
  • 興 … 比喩を用いて表現する。また、感奮興起する。
  • 観 … 世間のありさまを正しく観察できる。
  • 群 … 大勢の人々と和らぎ楽しむ。
  • 怨 … 不平の感情を穏やかに表現できるようになる。また、政治を批判する。
  • 邇 … 近い。
補説
  • 『注疏』では次章と合わせて一つの章とし、「此の章は人に詩を学ぶを勧むるなり」(此章勸人學詩也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 小子 … 『集解』に引く包咸の注に「小子は、門人なり」(小子、門人也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「諸弟子を呼んで、之に語らんと欲するなり」(呼諸弟子、欲語之也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「小子は、門人なり」(小子、門人也)とある。また『集注』に「小子は、弟子なり」(小子、弟子也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 何莫学夫詩 … 『義疏』に「莫は、無なり。夫は、語助なり。門弟子、汝等何ぞ夫の詩を学ぶ者無きか」(莫、無也。夫、語助也。門弟子、汝等何無學夫詩者也)とある。また『注疏』に「莫は、不なり。孔子門人を呼びて曰く、何ぞ夫の詩を学ばざるや、と」(莫、不也。孔子呼門人曰、何不學夫詩也)とある。
  • 詩可以興 … 『集解』に引く孔安国の注に「興は、譬えを引き類を連ぬ」(興、引譬連類)とある。また『義疏』に「又た為に宜しく学ぶべき所以の由を説くなり。興は、譬喩を謂うなり。言うこころは若し能く詩を学べば、詩は人をして能く譬喩を為さしむ可きなり」(又爲説所以宜學之由也。興、謂譬喩也。言若能學詩、詩可令人能爲譬喩也)とある。また『注疏』に「又た為に其の詩を学ぶことの益有るの理を説くなり。若し能く詩を学べば、詩は以て人をして能く譬えを引き類を連ねて以て比興を為さしむ可きなり」(又爲説其學詩有益之理也。若能學詩、詩可以令人能引譬連類以爲比興也)とある。また『集注』に「志意を感発す」(感發志意)とある。
  • 可以観 … 『集解』に引く鄭玄の注に「観は、風俗の盛衰を観る」(觀、觀風俗之盛衰)とある。また『義疏』に「詩には諸国の風有り。風俗の盛衰、以て観覧して以て之を知る可きなり」(詩有諸國之風。風俗盛衰、可以觀覽以知之也)とある。また『注疏』に「詩には諸国の風俗の盛衰、以て観覧して之を知る可きもの有るなり」(詩有諸國之風俗盛衰、可以觀覽知之也)とある。また『集注』に「得失を考見す」(考見得失)とある。
  • 可以群 … 『集解』に引く孔安国の注に「群は、居りて相切磋するなり」(羣、居相切磋也)とある。また『義疏』に「詩に、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しと有り。是れ朋友の道、以て群居す可きなり」(詩、有如切如磋、如琢如磨。是朋友之道、可以羣居也)とある。また『注疏』に「詩に、切するが如く磋するが如しと有り、以て群居して相切磋す可きなり」(詩、有如切如磋、可以羣居相切磋也)とある。また『集注』に「和して流れず」(和而不流)とある。
  • 可以怨 … 『集解』に引く孔安国の注に「怨は、上の政をそしる」(怨、刺上政)とある。また『義疏』に「詩は以て怨刺・諷諫す可きの法なり。之を言う者罪無く、之を聞く者以て戒むるに足る。故に以て怨む可きなり」(詩可以怨刺諷諫之法。言之者無罪、聞之者足以戒。故可以怨也)とある。また『注疏』に「詩には、君政不善ならば、則ち之を風刺し、之を言う者に罪無く、之を聞く者は以て戒むるに足るもの有り、故に以て上の政を怨刺す可きなり」(詩、有君政不善、則風刺之、言之者無罪、聞之者足以戒、故可以怨刺上政)とある。また『集注』に「怨みて怒らず」(怨而不怒)とある。
  • 邇之事父、遠之事君 … 『集解』に引く孔安国の注に「邇は、近なり」(邇、近也)とある。また『義疏』に「邇は、近なり。詩に凱風・白華有り。相戒むるに養を以てす。是れ近くしては父に事うるの道有るなり。又た雅・頌は君臣の法なり。是れ遠くしては君に事うるの道なる者有るなり。江熙云う、言うこころは父に事うると君に事うるとは、以て其の道有るなり、と」(邇、近也。詩有凱風白華。相戒以養。是有近事父之道也。又雅頌君臣之法。是有遠事君之道者也。江熙云、言事父與事君、以有其道也)とある。また『注疏』に「邇は、近なり。詩に凱風・白華の、相戒めて以て養うもの有り。是れ之を近くしては父に事うるの道有るなり。又た雅・頌の君臣の法有り。是れ之を遠くしては君に事うるの道有るなり。言うこころは父と君とに事うるに、皆其の道有るなり」(邇、近也。詩有凱風白華、相戒以養。是有近之事父之道也。又有雅頌君臣之法。是有遠之事君之道也。言事父與君、皆有其道也)とある。また『集注』に「人倫の道、詩に備わらざる無し。二者は重きを挙げて言う」(人倫之道、詩無不備。二者舉重而言)とある。
  • 多識於鳥獣草木之名 … 『義疏』に「関雎・鵲巣は、是れ鳥有るなり。騶虞・狼跋は、是れ獣有るなり。采蘩・葛覃は、是れ草有るなり。甘棠・棫樸は、是れ木有るなり。詩並びに其の名を載す。詩を学ぶ者は、則ち多く之を識るあり」(關雎鵲巢、是有鳥也。騶虞狼跋、是有獸也。采蘩葛覃、是有草也。甘棠棫樸、是有木也。詩竝載其名。學詩者、則多識之也)とある。また『注疏』に「言うこころは詩人は多く鳥獣草木の名を記して以て比興を為せば、則ち因りて又た多く此の鳥獣草木の名を識るなり」(言詩人多記鳥獸草木之名以爲比興、則因又多識於此鳥獸草木之名也)とある。また『集注』に「其の緒余は又た以て多識に資するに足る」(其緒餘又足以資多識)とある。
  • 『集注』に「詩を学ぶの法、此の章之を尽くせり。是の経を読む者、宜しく心を尽くすべき所なり」(學詩之法、此章盡之。讀是經者、所宜盡心也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「蓋し学問は強いて作す可からず。必ず志意興起するに非ざれば、則ち以て善に入ること莫し。故に以て興る可きを以て之を先にす。……然れども夫子唯だ子貢・子夏に許すに、始めて与に詩を言う可きのみを以てすれば、則ち詩を悟るの難き、亦た初学者のにわかにして至る可き所に非ざるなり」(蓋學問不可強作。必非志意興起、則莫以入于善。故以可以興先之。……然夫子唯許子貢子夏、以始可與言詩而矣、則悟詩之難、亦非初學者所可驟而至也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「大氐たいてい詩は性情をい、諷詠を主とし、類に触れて賦し、従容として以て発す。……然れども其の用は興と観とに在るのみ。興なる者は、其の自ら取るに従い、展転して已まざる、是れなり。観なる者は、黙して之を存し、情態の目に在る、是れなり。……平常に在りては以て変乱を識る可く、天下の事、皆我にあつまる者は、観の功なり。書は聖賢の大訓たり、而うして礼楽は乃ち徳の則なれども、苟くも詩之がたすけを為すに非ずんば、則ち何を以て能くこれを性情に体して周悉して遺さざらんや。……以て群す可く、以てえんす可しは、皆詩を用うる所以の方なり。……朱註の和して流れず、怨みて怒らずは、皆詩に関すること無し。之をちかくしては父に事え、之を遠くしては君に事うも、亦た皆興・観・群・怨を以て之を行う。多く識るというに至りては、乃ち其のしょ、旧註之を尽くせり」(大氐詩道性情、主諷詠、觸類而賦、從容以發。……然其用在興與觀已。興者、從其自取、展轉弗已、是也。觀者、默而存之、情態在目、是也。……在平常可以識變亂、天下之事、皆萃于我者、觀之功也。書爲聖賢大訓、而禮樂乃德之則、苟非詩爲之輔、則何以能體諸性情周悉不遺哉。……可以羣、可以怨、皆所以用詩之方也。……朱註和而不流、怨而不怒、皆無關乎詩焉。邇之事父、遠之事君、亦皆以興觀群怨行之。至於多識、乃其諸餘、舊註盡之)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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