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陽貨第十七 3 子曰唯上知與下愚不移章

437(17-03)
子曰、唯上知與下愚不移。
いわく、じょう下愚かぐとはうつらず。
現代語訳
  • 先生 ――「ずばぬけた人と大ノロマだけは、どうにもならぬ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「人は習いによって賢とも愚とも移り変るが、ただ最上級の賢人と最下級の愚者とだけは、かれは、『生れながらにして知る者』であり、これは『くるしみて学ばざる者』であるから、移りようがない。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「最上位の賢者と、最下位の愚者だけは、永久に変らない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 上知 … 生まれながらに道理を知っているすぐれた人。上智。
  • 下愚 … 困窮しても学ぼうとしない愚かな人。
  • 不移 … 変わりようがない。
  • この章は、前章に続けて一つの章であったものが、誤って「子曰」が挟まり別々の章になったという説もある。
補説
  • 『注疏』では前章と合わせて一つの章とし、「此の章は君子は当に其の習う所を慎むべきを言うなり」(此章言君子當愼其所習也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 唯上知與下愚不移 … 『集解』に引く孔安国の注に「上知は強いて悪を為さしむ可からず。下愚は強いて賢ならしむ可からず」(上智不可使強爲惡。下愚不可使強賢也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「前に既に云う、性は近く習いは遠し、と。而れども又た異なること有り。此れ則ち之を明らかにするなり。夫れ聖を降してより以還、賢愚万品なり。若し大にして之を言えば、且つ分かちて三と為す。上分は是れ聖、下分は是れ愚なり。愚人以上聖人以下、其の中階品同じからざれども、共に一たり。此を之れ一を共にすれば、則ち推移すること有り。今云う、上智は聖人を謂い、下愚は愚人なり、と。夫れ人生まれざれば則ち已む。若し生の始めに有らば、便ち天地・陰陽・氛氲ふんうんの気に稟く。気に清濁有り。若し稟くるに淳清なる者を得れば、則ち聖人と為る。若し淳濁なる者を得れば、則ち愚人と為る。愚人の淳濁は、澄ますと雖も亦た清まず。聖人の淳清は、之をみだすも濁らず。故に上聖は昏乱の世に遇うも、其の真をたわむ能わず。下愚は重堯畳舜に値うも、其の悪を変ずる能わず。故に云う、唯だ上智と下愚とは移らざるなり、と。而して上智以下下愚以上、二者の中間、顔・閔以下一善以上、其の中も亦た清多く濁少なし。或いは濁多く清少なし。或いは半ば清半ば濁なり。之を澄ませば則ち清く、之をみだせば則ち濁る。此くの如きの徒、以て世の変改に随う。若し善に遇えば、則ち清升し、悪に逢えば則ち滓淪す。所以に別に云う、性相近く習い相遠し、と」(前既云、性近習遠。而又有異。此則明之也。夫降聖以還、賢愚萬品。若大而言之、且分爲三。上分是聖、下分是愚。愚人以上聖人以下、其中階品不同、而共爲一。此之共一、則有推移。今云、上智謂聖人、下愚愚人也。夫人不生則已。若有生之始、便稟天地陰陽氛氲之氣。氣有清濁。若稟得淳清者、則爲聖人。若得淳濁者、則爲愚人。愚人淳濁、雖澄亦不清。聖人淳清、攪之不濁。故上聖遇昏亂之世、不能撓其眞。下愚値重堯疊舜、不能變其惡。故云、唯上智與下愚不移也。而上智以下下愚以上二者中閒、顔閔以下一善以上、其中亦多清少濁。或多濁少清。或半清半濁。澄之則清、攪之則濁。如此之徒、以隨世變改。若遇善、則清升、逢惡則滓淪。所以別云、性相近習相遠也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「然れども此れは乃ち是れ中人なるのみ。其の性は上にす可く下にす可し、故に善に遇えば則ち升り、悪に逢えば則ち墜つるなり。孔子又た嘗て曰く、唯だ上知の聖人は之を移して悪を為さしむ可からず。下愚の人は之を移して強いて賢ならしむ可からず、と。此れは則ち中人の性・習の相近遠の如きには非ざるなり」(然此乃是中人耳。其性可上可下、故遇善則升、逢惡則墜也。孔子又嘗曰、唯上知聖人不可移之使爲惡。下愚之人不可移之使強賢。此則非如中人性習相近遠也)とある。また『集注』に「此れ上章を承けて言う。人の気質相近きの中、又た美悪一定して、習の能く移す所に非ざる者有り」(此承上章而言。人之氣質相近之中、又有美惡一定、而非習之所能移者)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 上知 … 『義疏』では「上智」に作る。
  • 『集注』に引く程頤の注に「人の性は本より善なり。移す可からざる者有るは、何ぞや。其の性を語れば、則ち皆善なり。其の才を語れば、則ち下愚の移らざること有り。所謂下愚に二有り。自暴自棄なり。人苟くも善を以て自ら治むれば、則ち移る可からざること無し。昏愚の至りと雖も、皆漸磨して進む可し。惟だ自暴なる者は、之を拒みて以て信ぜず。自棄なる者は、之を絶ちて以て為さず。聖人与に居ると雖も、化して入ること能わざるなり。仲尼の所謂下愚なり。然れども其の質は必ずしも昏且つ愚に非ず。往往にして強戻にして才力の人に過ぐる者有り。商辛、是れなり。聖人其の自ら善を絶つを以て、之を下愚と謂う。然れども其の帰を考うれば、則ち誠に愚なり」(人性本善。有不可移者、何也。語其性、則皆善也。語其才、則有下愚之不移。所謂下愚有二焉。自暴自棄也。人苟以善自治、則無不可移。雖昏愚之至、皆可漸磨而進也。惟自暴者、拒之以不信。自棄者、絶之以不爲。雖聖人與居、不能化而入也。仲尼之所謂下愚也。然其質非必昏且愚也。往往強戻而才力有過人者。商辛、是也。聖人以其自絶於善、謂之下愚。然考其歸、則誠愚也)とある。
  • 『集注』に「或ひと曰く、此れ上章と当に合して一と為すべし。子曰の二字、蓋し衍文えんぶんなるのみ、と」(或曰、此與上章當合爲一。子曰二字、蓋衍文耳)とある。衍文は、文章の中に誤って混入した余計な文のこと。
  • 伊藤仁斎『論語古義』では前章と合わせて一つの章とし、「或ひと曰く、下の子曰の二字は衍文、今之に従う。……唯だ上知と下愚とは、一定して移らざるのみ」(或曰、下子曰二字衍文、今從之。……唯上知下愚、一定不移而已耳)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「唯だ上知と下愚とは移らず。或いは以為おもえらく子曰の字は衍なりと。是れ原・思が二語相発するを以て、故に之を連記す。豈に必ずしも一時の言ならんや。它章にも亦たくの若き者有り。豈にかかわる可けんや。下愚は民を謂うなり。下愚の人は移ること能わざれば、則ち以て民と為して、これを士にのぼさざるなり。孔子曰く、民は之に由らしむ可し、之を知らしむ可からず、と。学習の移すこと能わざる所なるを以てなり。初めより其の愚を悪むに非ず。又た唯だ其の愚の学ぶ可からざるを言うのみ。未だ嘗て善悪を以て之を言わず。何んとなれば、知愚を以て之を言いて、賢不肖を以て之を言わざればなり。程子の自暴自棄を以て下愚を論ずるが如きは、大いに孔子の意を失す。蓋し孟子の性善の説有りしよりして、学者善悪を以て之を見、遂に習いに善悪有りと曰いて、下愚を以て桀紂の徒と為すに至る。又た孟子の弁を好みしよりして、学者おおむね言語を以て教えと為し、務めて言語を以て人を化せんと欲すること、一に浮屠ふとの如し。得て化す可からざる者有るに至りては、則ち下愚を以て之をもくす。又た其の意に謂えらく聖人は学んで至る可し、気質は変じて尽くす可しと。此れを以て説を立つるときは、則ち此の章に至りて窮す。故に遂に自暴自棄を以て下愚を目す。其の心に謂えらく下愚の移らざるは、気質の罪に非ざるなり。其の心の罪なりと。是れ皆其の先王の道を知らず、又た古えの教法を知らざるに坐す。故に孔子の当時の意を失するのみ。蓋し移ると云う者は、性を移すのいいに非ざるなり。移るに亦た性なり、移らざるも亦た性なり。故に上知と下愚とは移らずと曰うは、其の性の殊なるを言うなり。中人は上にす可く下にす可し。亦た其の性の殊なるを言うなり」(唯上知與下愚不移。或以爲子曰字衍也。是原思以二語相發、故連記之。豈必一時之言哉。它章亦有若是者焉。豈可拘哉。下愚謂民也。下愚之人不能移、則以爲民、而不升諸士也。孔子曰、民可使由之、不可使知之。以學習所不能移也。初非惡其愚焉。又唯言其愚不可學耳。未嘗以善惡言之矣。何則、以知愚言之、而不以賢不肖言之也。如程子以自暴自棄論下愚、大失孔子之意焉。蓋自有孟子性善之説、而學者以善惡見之、遂曰習有善惡、而至於以下愚爲桀紂之徒焉。又自孟子好辨、而學者率以言語爲教、務欲以言語化人、一如浮屠。至有不可得而化者、則以下愚目之矣。又其意謂聖人可學而至焉、氣質可變而盡焉。以此立説、則至此章而窮矣。故遂以自暴自棄目下愚。其心謂下愚不移、非氣質之罪也。其心之罪也。是皆坐其不知先王之道、又不知古之教法。故失孔子當時之意耳。蓋移云者、非移性之謂矣。移亦性也、不移亦性也。故曰上知與下愚不移、言其性殊也。中人可上可下。亦言其性殊也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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