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季氏第十六 1 季子將伐顓臾章

421(16-01)
季子將伐顓臾。冉有季路見於孔子曰、季氏將有事於顓臾。孔子曰、求、無乃爾是過與。夫顓臾、昔者先王以爲東蒙主。且在邦域之中矣。是社稷之臣也。何以伐爲。冉有曰、夫子欲之、吾二臣者、皆不欲也。孔子曰、求、周任有言、曰、陳力就列、不能者止。危而不持、顚而不扶、則將焉用彼相矣。且爾言過矣。虎兕出於柙、龜玉毀於櫝中、是誰之過與。冉有曰、今夫顓臾、固而近於費。今不取、後世必爲子孫憂。
孔子曰、求、君子疾夫舍曰欲之、而必爲之辭。丘也聞、有國有家者、不患寡而患不均。不患貧而患不安。蓋均無貧、和無寡、安無傾。夫如是。故遠人不服、則修文德以來之。既來之、則安之。今由與求也、相夫子、遠人不服、而不能來也。邦文崩離析、而不能守也。而謀動干戈於邦内。吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之内也。
季氏きしまさせんたんとす。冉有ぜんゆう季路きろこうまみえていわく、季氏きしまさせんことらんとす。こういわく、きゅうすなわなんじあやまてることきか。せんは、昔者むかし先王せんおうもっ東蒙とうもうしゅせり。邦域ほういきうちり。しゃしょくしんなり。なんつことをもっさん。冉有ぜんゆういわく、ふうこれほっす、二臣にしんものは、みなほっせざるなり。こういわく、きゅうしゅうじんえるり。いわく、ちからべてれつき、あたわざればむと。あやうくしてせず、くつがえりてたすけずんば、すなわいずくんぞしょうもちいん。なんじげんあやまてり。虎兕こじこうよりで、ぎょくとくちゅうやぶれなば、たれあやまちぞ。冉有ぜんゆういわく、いませんかたくしてちかし。いまらずんば、後世こうせいかならそんうれいとらん。
こういわく、きゅうくんこれほっすとうをきて、かならこれすをにくむ。きゅうく、くにたもいえたもものは、すくなきをうれえずしてひとしからざるをうれう。まずしきをうれえずしてやすからざるをうれうと。けだひとしければまずしきことく、すればすくなきことく、やすければかたむくことし。くのごとし。ゆえ遠人えんじんふくせざれば、すなわ文徳ぶんとくおさめてもっこれきたす。すでこれきたせば、すなわこれやすんず。いまゆうきゅうや、ふうたすけ、遠人えんじんふくせずして、しかきたすことあたわず。くに文崩ぶんほうせきして、しかまもることあたわざるなり。しこうしてかん邦内ほうないうごかさんとはかる。われそんうれいは、せんらずして、蕭牆しょうしょううちらんことをおそるるなり。
現代語訳
  • (魯の家老の)季孫が(保護国の)顓臾(センユ)を攻め取ろうとした。冉(ゼン)有と子路が孔先生にお会いしていう、「季孫さんが顓臾の国をねらっています。」孔先生 ――「求くん、それはきみの責任じゃないかね。あの顓臾は、むかし(周の)王さまが東蒙山のあるじとされた国で、もともと魯の領土の一部じゃ。だからお国の家来じゃよ。なんで攻めたりする…。」冉有 ――「主人の考えでして、わたしども家来はふたりとも反対ですが…。」孔先生 ――「求くん、むかし(歴史家の)周任がいった、『ちからいっぱいに勤め、およばなければやめる』と。あぶないときにささえ、ころんだときに助け起こさなかったら、つきそい人がなんの役にたとうぞ。それにきみのいうこともまちがいじゃ。トラや野牛がオリを破り、亀甲や宝石が箱のなかでこわれたら、それはだれの責任かな…。」冉有 ――「あの顓臾は、守りが固いうえに(季家の領地の)費の近くです。いま攻め取らないと、のちの世にきっと子孫のなやみになります。」孔先生 ――「求くん、人間が自分の欲心をいつわって、なんとか口実をつけるのはいやらしいものじゃ。わしは聞いている、『殿や家老というものは、人不足なことより、不公平を恐れる。貧乏よりも、不安定を恐れる』と。つまり公平ならば貧乏はなく、むつまじければ人不足はなく、安定すれば変動はない。というわけじゃから、遠くの人が従わないときは、こちらの文化を高めて、ひきよせてやる。ひきよせたなら、落ちつけてやる。ところが由くんと求くんは、主人につきそいながら、遠くの人の従わないのを、ひきよせることができない。国がバラバラにわかれても、固めることができない。それでいて国内の戦争をもくろんでいる。どうやら季孫さんの心配なのは、そとの顓臾じゃなくて、ヘイの内がわのほうじゃな。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • たいそん氏は、こうりょうの半分までを私領にしているにもあきたらず、属国ぞっこくせんを切り取ろうとくわだてた。その時季氏の家臣だった冉有ぜんゆう季路きろ(子路)とは、後に先生にしかられても困ると思ったか、孔子様におめにかかり、「季氏が顓臾にいくさをしかけようとしております。」と申し上げた。すると孔子様は冉有に向かって、「求よ、もしさようのことに賛同したならば、それはお前の大過失ではないだろうか。いったい顓臾はその昔天子が東蒙山とうもうさん下に領地を与えてその山の祭をつかさどらせた由緒ゆいしょある国であって、今は魯の領地内にはいっており、既にこの国の一部分であるのを、いまさら征伐する理由があろうか。」ととがめられた。冉有は少々テレて、「実は主人の希望でありまして、私共両人は不賛成なのでござります。」と弁解した。そこで孔子様は重ねて、「求よ、不賛成ならばなぜいさめぬ。昔、良記録官といわれたしゅうじんの言葉に、『力の限りをつくして職をつとめよ。それができぬのなら退職せよ。』とある。臣が君の過ちを救わぬのは、盲人があぶない所へ行くのをめず、ころぶのを助け起さぬようなもので、それならば手引きなどはいらぬではないか。主人の一存いちぞんで、自分たちの知ったことでない、という風にお前は申すが、その言分いいぶんはなはだ間違っているぞ。番をしているとらや野牛がおりを破り、預っていたかめの甲や玉がひつの中でこわれたならば、それはいったい誰の過失なのじゃ。」と追究されたので、冉有は苦しまぎれにさらに理由を設け、「しかしかのせんなる所は、要害堅固でかつ季氏の領地の費に近いことでありますから、今のうちにまつをしておきませぬと、将来季氏の子孫の心配の種になろうと存じます。」と言った。孔子様がしかっておっしゃるよう、「求よ。実は私の本意なのでありますと、そっちょくに言わずに、あれこれと言い草をもうけるのは、君子のにくむところじゃぞ。季氏が領地を広めんとするのは、人口ますます多く、物資いよいよならんことを欲するのであろうが、国持くにもち諸侯しょこう家持いえもちたいたる者は、物資のとぼしきをうれえずして配分の均一きんいつならざるを憂え、生活の貧困を憂えずして人心の不安を憂うべし、とわしは聞いている。配分が均一ならば誰が貧しいということもなく、人々仲よくゆずり合えば物がとぼしいということもなく、人心が安定すれば家や国の傾きくつがえる心配もない。さような次第じゃから、もし遠国の民が服しないならば、こちらの文化徳教を振興しておのずからしたい寄らしめ、既になついて来たらば、これを同化あんせしむべきであって、武力で征服するなどとはもっての外じゃ。いまゆうきゅうとが季氏を補佐しながら、領外の人民を慕い寄らせることもできず、国内四分五裂しても収拾がつかず、その上にも領内に戦争を起そうと計画するとは何事ぞ。わしは心配する、季孫氏将来の憂いは、遠いせんにはなくして、近くかきの内にあろうぞ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 季氏が魯の保護国せんを討伐しようとした。季氏に仕えていた冉有と季路とが先師にまみえていった。――
    「季氏がせんに対して事を起そうとしています」
    先師がいわれた。
    きゅうよ、もしそうだとしたら、それはお前がわるいのではないのかね。いったいせんという国は、昔、周王が東蒙とうもう山の近くに領地を与えてその山の祭祀をお命じになった国なのだ。それに、今では魯の支配下にはいっていて、その領主は明らかに魯の臣下だ。同じく魯の臣下たる季氏が勝手に討伐などできる国ではないだろう」
    冉有がいった。――
    「主人がやりたがって困るのです。私どもは二人とも決して賛成しているわけではありませんが……」
    先師がいわれた。――
    きゅうよ、昔、しゅうにんという人は『力のかぎりをつくして任務にあたり、任務が果たせなければその地位を退け。盲人がつまずいた時に支えてやることができず、ころんだ時にたすけ起すことができなければ、手引きはあっても無いに等しい』といっているが、全くそのとおりだ。お前のいうことは、いかにもなさけない。もしも虎や野牛が檻から逃げ出したとしたら、それはいったい誰の責任だ。また亀甲や宝石が箱の中でこわれていたとしたら、それはいったい誰の罪だ。よく考えてみるがいい」
    冉有がいった。――
    「おっしゃることはごもっともですが、しかし現在のせんは、要害堅固で、季氏の領地のにも近いところでございますし、今のうちに始末をしておきませんと、将来、子孫の心配の種になりそうにも思えますので……」
    先師がいわれた。――
    きゅう、君子というものは、自分の本心を率直にいわないで、あれこれと言葉をかざるのをにくむものだ。私はこういうことを聞いたことがある。諸侯や大夫たる者はその領内の人民の貧しいのを憂えず、富の不平均になるのを憂え、人民の少ないのを憂えず、人心の安定しないのを憂えるというのだ。私の考えるところでは、富が平均すれば貧しいこともなく、人心がやわらげば人民がへることもない。そして人心が安定すれば国が傾くこともないだろう。かようなわけだから、もし遠い土地の人民が帰服しなければ、文教徳化をさかんにして自然に慕ってくるようにするがいいし、すでに帰服して来たものは安んじて生を楽しむようにしてやるがいい。今、きいていると、ゆうきゅうも、季氏を輔佐していながら、遠い土地の人民を帰服させることができず、国内を四分五裂させて、その収拾がつかず、しかも領内に兵を動かして動乱をひきおこそうと策謀している。もってのほかだ。私は、季孫の憂いの種は、実はせんにはなくて垣根のうちにあると思うがどうだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 季氏 … 魯の国の大夫、季孫氏。三桓の中で最も勢力があった。ウィキペディア【三桓氏】参照。
  • 顓臾 … 国の名。魯国の付庸国。付庸国は、他国に従属して保護と指揮をうける国。ウィキペディア【顓臾國】(中文)参照。
  • 冉有 … 前522~?。孔門十哲のひとり。姓は冉、名は求。あざなは子有。政治的才能があり、季氏の宰(家老)となった。孔子より二十九歳年少。冉求、冉子とも。ウィキペディア【冉有】参照。
  • 季路 … 前542~前480。姓はちゅう、名はゆうあざなは子路、または季路。魯のべんの人。孔門十哲のひとり。孔子より九歳年下。門人中最年長者。政治的才能があり、また正義感が強く武勇にも優れていた。ちなみに「季」は兄弟の一番末っ子。兄弟を年齢の上の者から順に、伯(孟)・仲・叔・季で表す。ウィキペディア【子路】参照。
  • 昔者 … 以前。むかし。「者」の読みが省略されるので、二字で「むかし」と読む。「者」は、時を示す語に添える助字。「今者いま」なども同様。
  • 先王 … 周初の天子を指す。
  • 東蒙 … 山の名。顓臾が山の祭主であった。
  • 邦域 … 国の範囲。領土。ここでは魯の領土内。
  • 社稷之臣 … 国家の重臣。ここでは魯公の直接の臣。
  • 夫子 … 大夫の位にある者の敬称。ここでは季氏を指す。
  • 周任 … 昔の賢人の名。史官(記録係)だったという。
  • 陳力就列 … 力を尽くして、その地位に就くこと。「陳」は、尽くしていくこと。「列」は、臣下の位。
  • 不能者止 … できなければ辞職する。
  • 危而不持 … 足元が危ないときに支えようとしない。
  • 顚而不扶 … 転倒しても助け起こそうとしない。
  • 相 … 補佐役。
  • 虎兕 … 虎と野牛。
  • 柙 … おり
  • 亀玉 … 亀の甲とぎょく。貴重品の喩え。
  • 櫝 … 箱。
  • 固 … 要害堅固。
  • 費 … 地名。季孫氏の領地。
  • 為之辞 … 理由を考えて弁解する。
  • 有国有家者 … 国を治める諸侯や、家を治める卿大夫。
  • 寡 … 人口が少ないこと。
  • 不均 … 配分が平等でないこと。
  • 不安 … 人心が安定しないこと。
  • 傾 … 国が傾くこと。
  • 遠人 … 遠方の人。顓臾を指す。
  • 不服 … 服従しない。
  • 文徳 … 学問・教育などによる徳。
  • 文崩離析 … 分裂・崩壊すること。
  • 干戈 … 戦争。武器。武力。たてほこの意から。
  • 蕭牆 … 門内のへい。転じて、うちわ。家の中。
補説
  • 季氏第十六 … 『集解』に「凡そ十四章」(凡十四章)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「季氏とは、魯国の上卿にして、豪強僭濫せんらんする者なり。前者に次ぐ所以なり。既に君の悪を明らかにす。故に臣凶に拠る。故に季氏を以て衛霊公に次ぐなり」(季氏者、魯國上卿、豪強僭濫者也。所以次前者。既明君惡。故據臣凶。故以季氏次衞靈公也)とある。僭濫は、身分を乱すこと。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「此の篇は天下に道無く、政は大夫に在るを論ず。故に孔子其の正道を陳べ、其の衰失を揚げ、損益を称して以て人に教え、詩・礼を挙げて以て子におしえ、君子の行いを明らかにし、夫人の名を正す。前篇の首章に衛君霊公の失礼を記し、此の篇の首章に魯臣季氏のせんを言うを以て、故に以て之を次するなり」(此篇論天下無道、政在大夫。故孔子陳其正道、揚其衰失、稱損益以教人、舉詩禮以訓子、明君子之行、正夫人之名。以前篇首章記衞君靈公失禮、此篇首章言魯臣季氏專恣、故以次之也)とある。専恣は、ほしいままにすること。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「洪氏曰く、此の篇或いは以て斉論と為す、と。凡そ十四章」(洪氏曰、此篇或以爲齊論。凡十四章)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 『注疏』に「此の章は魯卿季氏の征伐を専恣するの事を論ずるなり」(此章論魯卿季氏專恣征伐之事也)とある。
  • 季子將伐顓臾 … 『義疏』に「此の章は季氏の専征濫伐の悪を明らかにするなり。顓臾は、魯の附庸なり。其の地は季氏の采邑と相近し。故に季氏伐ちて之をあわせんと欲するなり。故に云う、季氏将に顓臾を伐たんとす、と」(此章明季氏專征濫伐之惡也。顓臾、魯之附庸也。其地與季氏采邑相近。故季氏欲伐而幷之也。故云、季氏將伐顓臾也)とある。また『注疏』に「顓臾は、伏羲の後、風姓の国なり。本と魯の附庸にして、当時魯に臣属す。而るに季氏其の土地を貪り、滅ぼして之を取らんと欲するなり」(顓臾、伏羲之後、風姓之國。本魯之附庸、當時臣屬於魯。而季氏貪其土地、欲滅而取之也)とある。また『集注』に「顓臾は、国の名、魯の附庸なり」(顓臾、國名、魯附庸也)とある。
  • 冉有 … 『孔子家語』七十二弟子解に「冉求は字は子有。仲弓の宗族なり。孔子よりわかきこと二十九歳。才芸有り。政事を以て名を著す。仕えて季氏の宰と為る。進めば則ち其の官職をおさめ、退けば則ち教えを聖師に受く。性たること多く謙退す。故に子曰く、求や退、故に之を進ましむ、と」(冉求字子有。仲弓之宗族。少孔子二十九歳。有才藝。以政事著名。仕爲季氏宰。進則理其官職、退則受教聖師。爲性多謙退。故子曰、求也退、故進之)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「冉求、字は子有。孔子よりわかきこと二十九歳。季氏の宰と為る」(冉求字子有。少孔子二十九歳。爲季氏宰)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 季路 … 『孔子家語』七十二弟子解に「仲由は卞人べんひと、字は子路。いつの字は季路。孔子よりわかきこと九歳。勇力ゆうりき才芸有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、にして変通に達せず。衛に仕えて大夫と為る。蒯聵かいがいと其の子ちょうと国を争うに遇う。子路遂に輒の難に死す。孔子之を痛む。曰く、吾、由有りてより、悪言耳に入らず、と」(仲由卞人、字子路。一字季路。少孔子九歳。有勇力才藝。以政事著名。爲人果烈而剛直。性鄙而不達於變通。仕衞爲大夫。遇蒯聵與其子輒爭國。子路遂死輒難。孔子痛之。曰、自吾有由、而惡言不入於耳)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「仲由、字は子路、べんの人なり。孔子よりもわかきこと九歳。子路性いやしく、勇力を好み、志こうちょくにして、雄鶏を冠し、とんび、孔子を陵暴す。孔子、礼を設け、ようやく子路をいざなう。子路、後に儒服してし、門人に因りて弟子たるを請う」(仲由字子路、卞人也。少孔子九歳。子路性鄙、好勇力、志伉直、冠雄鷄、佩豭豚、陵暴孔子。孔子設禮、稍誘子路。子路後儒服委質、因門人請爲弟子)とある。伉直は、心が強くて素直なこと。豭豚は、オスの豚の皮を剣の飾りにしたもの。委質は、はじめて仕官すること。ここでは孔子に弟子入りすること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 見於孔子曰、季氏将有事於顓臾 … 『集解』に引く孔安国の注に「顓臾は宓羲の後、風姓の国。本と魯の附庸にして、当時魯に臣属す。季氏其の地を貪り、滅ぼして之をたもたんと欲す。冉有と季路とは季氏の臣たり、来たりて孔子に告ぐるなり」(顓臾宓羲之後、風姓之國。本魯之附庸、當時臣屬魯。季氏貪其地、欲滅而有之。冉有與季路爲季氏臣、來告孔子也)とある。また『義疏』に「二人時に季氏に仕えて臣と為り、季氏の濫伐せんと欲するを見る。故に来たりて孔子に見えて之に告げて道うなり。此れ冉有孔子に告ぐるの辞なり。事有りは、征伐の事有るを謂うなり」(二人時仕季氏爲臣、見季氏欲濫伐。故來見孔子告道之也。此冉有告孔子之辭也。有事、謂有征伐之事也)とある。また『注疏』に「冉有・季路は季氏の臣たれば、来たりて孔子に告げて言う、季氏将に顓臾に征伐するの事有らんとす、と」(冉有季路為季氏臣、來告孔子言、季氏將有征伐之事於顓臾也)とある。また『集注』に「左伝と史記を按ずるに、二子の季氏に仕うるは時を同じうせず。此れしか云うは、疑うらくは子路嘗て孔子に従いて衛より魯にかえり、再び季氏に仕え、久しからずして復た衛にく」(按左傳史記、二子仕季氏不同時。此云爾者、疑子路嘗從孔子自衞反魯、再仕季氏、不久而復之衞也)とある。
  • 無乃爾是過与 … 『集解』に引く孔安国の注に「冉求は季氏の宰と為り、其の室をたすけ、之が為にしゅうれんす。故に孔子は独り求に教えを疑うなり」(冉求爲季氏宰、相其室、爲之聚斂。故孔子獨疑求教也)とある。聚斂は、厳しく税を取り立てること。また『義疏』に「求は、冉有の名なり。爾は、汝なり。二人倶に来たりて告ぐと雖も、冉有独り告ぐ。冉有又た季氏の為に聚斂の失有るを嫌う。故に孔子独り其の名を呼びて問いて云う、此の征伐の事、乃ち是れ汝の罪過無からんか、と。言うこころは是れ其の季氏の之を為すことを教え導くなり」(求、冉有名也。爾、汝也。雖二人倶來而告、冉有獨告。嫌冉有又爲季氏有聚斂之失。故孔子獨呼其名而問云、此征伐之事、無乃是汝之罪過與。言是其教導季氏爲之也)とある。なお、「導」は底本では「道」に作るが、諸本に従い改めた。また『注疏』に「無乃は、乃なり。爾は、女なり。二子同じく来たり告ぐと雖も、冉求は季氏の宰と為りて、其の室をたすけ、之が聚斂を為すを以て、故に孔子独り求の之を教うるを疑うのみ、言うこころは将に顓臾を伐たんとするは、乃ち女是れ罪過ならんか。与は、疑辞なり」(無乃、乃也。爾、女也。雖二子同來告、以冉求爲季氏宰、相其室、爲之聚斂、故孔子獨疑求教之、言將伐顓臾、乃女是罪過與。與、疑辭也)とある。また『集注』に「冉求は季氏の為に聚斂し、尤も事を用う。故に夫子独り之を責む」(冉求爲季氏聚斂、尤用事。故夫子獨責之)とある。
  • 夫顓臾、昔者先王以為東蒙主 … 『集解』に引く孔安国の注に「蒙山を祭るをつかさどらしむるなり」(使主祭蒙山也)とある。また『義疏』に「孔子は冉有之を伐つを聴かざるを拒むなり。言うこころは顓臾は是れ昔先王聖人の立てし所、以て蒙山の祭を主る。蒙山は東に在り。故に云う、東蒙の主なり、と。既に是れ先王の立てし所、又た祭祀の主たり。故に伐つ可からざるなり」(孔子拒冉有不聽伐之也。言顓臾是昔先王聖人之所立、以主蒙山之祭。蒙山在東。故云、東蒙主也。既是先王所立、又爲祭祀之主。故不可伐也)とある。また『注疏』に「言うこころは昔者むかし先王始めて顓臾を封じて附庸の君と為し、蒙山を祭るをつかさどらしむ。蒙山は東に在り、故に東蒙と曰う」(言昔者先王始封顓臾爲附庸之君、使主祭蒙山。蒙山在東、故曰東蒙)とある。また『集注』に「東蒙は、山の名。先王は顓臾を此の山の下に封じ、其の祭をつかさどらしむ」(東蒙、山名。先王封顓臾於此山之下、使主其祭)とある。
  • 且在邦域之中矣 … 『集解』に引く孔安国の注に「魯は七百里の邦なり。顓臾は附庸たりて、其の域中に在るなり」(魯七百里之邦。顓臾爲附庸、在其域中也)とある。また『義疏』に「言うこころは且つ顓臾は魯の七百里の封内に在り。故に云う、邦域の中に之れ在るなり、と」(言且顓臾在魯七百里封内。故云、在邦域中之也)とある。また『注疏』に「魯の封域は方七百里にして、顓臾は附庸たりて、其の域中に在るなり」(魯之封域方七百里、顓臾爲附庸、在其域中也)とある。また『集注』に「魯の地七百里の中に在り」(在魯地七百里之中)とある。
  • 是社稷之臣也。何以伐為 … 『集解』に引く孔安国の注に「已に魯に属し、社稷の臣と為る。何ぞ之を滅ぼすを用て為さん」(已屬魯、爲社稷之臣。何用滅之爲也)とある。また『義疏』に「国社稷を主る。顓臾既に魯国に属す。故に是れ社稷の臣なり。既にあまねく伐つ可からざるの事を陳べて、此れ改めて其の何を以てか之を伐ちて滅ぼすことを用いて為さんことを問うなり」(國主社稷。顓臾既屬魯國。故是社稷之臣也。既歴陳不可伐之事、而此改問其何以用伐滅之爲也)とある。また『注疏』に「言うこころは顓臾は已に魯に属して社稷の臣たるに、何を用てか之を伐ちて滅ぼすことを為さん」(言顓臾已屬魯爲社稷之臣、何用伐滅之爲)とある。また『集注』に「社稷は、猶お公家と云うがごとし。是の時魯国を四分して、季氏其の二を取り、孟孫、叔孫、各〻其の一を有す。だ附庸の国は、尚お公臣たり。季氏又た取りて以て自ら益さんと欲す。故に孔子言う、顓臾は乃ち先王の封国なれば、則ち伐つ可からず。邦域の中に在れば、則ち必ずしも伐たず。是れ社稷の臣なれば、則ち季氏当に伐つべき所に非ざるなり、と。此れ事理の至当、不易の定体にして、一言にて其の曲折を尽くすこと此くの如し。聖人に非ざれば能わざるなり」(社稷、猶云公家。是時四分魯國、季氏取其二、孟孫叔孫、各有其一。獨附庸之國、尚爲公臣。季氏又欲取以自益。故孔子言、顓臾乃先王封國、則不可伐。在邦域之中、則不必伐。是社稷之臣、則非季氏所當伐也。此事理之至當、不易之定體、而一言盡其曲折如此。非聖人不能也)とある。
  • 何以伐爲 … 『義疏』では「何以伐爲也」に作る。
  • 夫子欲之、吾二臣者、皆不欲也 … 『集解』に引く孔安国の注に「咎を季氏に帰するなり」(歸咎於季氏也)とある。また『義疏』に「夫子は、季氏を指すなり。冉有顓臾を伐つの事を言う。是れ季氏の欲する所なり。故に云う、夫子之を欲するなり、と。吾二臣と称するは、是れ冉有自ら子路に及ぶを謂うなり。言うこころは我二臣皆之を伐つを欲せざるなり。冉有は孔子独り己を信ぜざるを恐るるなり。故に子路を引きてちゅうの証を為すなり」(夫子、指季氏也。冉有言伐顓臾之事。是季氏所欲。故云、夫子欲之也。稱吾二臣、是冉有自謂及子路也。言我二臣皆不欲伐之也。冉有恐孔子不獨信己。故引子路爲儔證也)とある。儔は、ともがら。同列の仲間。また『注疏』に「夫子は、季氏を謂うなり。冉有は其のきゅうあくを季氏に帰するなり。故に言うこころは季氏伐たんと欲す、我ら二人は皆欲せざるなり」(夫子、謂季氏也。冉有歸其咎惡於季氏也。故言季氏欲伐、我二人皆不欲也)とある。また『集注』に「夫子は、季孫を指す。冉有実にはかりごとあずかるも、夫子之を非とするを以て、故にとがを季氏に帰す」(夫子、指季孫。冉有實與謀、以夫子非之、故歸咎於季氏)とある。
  • 孔子曰、求 … 『義疏』に「孔子冉有の咎を季氏に帰することを許さず。故に云う、又た求の名を呼びて之に語ぐるなり、と」(孔子不許冉有歸咎於季氏。故云、又呼求名語之也)とある。
  • 周任有言、曰、陳力就列、不能者止 … 『集解』に引く馬融の注に「周任は、古えの良史なり。言うこころは当に其の才力を陳べ、己の任す所をはかりて、以て其の位に就くべし。能わざれば則ち当に止むべきなり」(周任、古之良史也。言當陳其才力、度己所任、以就其位。不能則當止也)とある。また『義疏』に「此れ語の辞なり。周任は、古えの良史なり。周任言うこと有りて云う、人生まれて君に事うるには、当に先ず量りて後に入るべし。我が才力の堪うる所を計陳するが若くして、乃ち後其の列次に就き、其の職の任を治むるのみ。若し自ら才堪えざるを量らば、則ち当に止めて為さざるべきなり」(此語之辭也。周任、古之良史也。周任有言云、人生事君、當先量後入。若計陳我才力所堪、乃後就其列次、治其職任耳。若自量才不堪、則當止而不爲也)とある。また『注疏』に「周任は、古えの良史なり。夫子冉有の咎を季氏に帰するを見る。故に其の名を呼び、周任の言を引きて以て之を責む。言うこころは大臣たる者は当に其の才力を陳べ、己の任ぜらるる所をはかりて、以て其の列位に就くべし。能わずんば則ち当に自ら止めて退くべきなり」(周任、古之良史也。夫子見冉有歸咎於季氏。故呼其名、引周任之言以責之。言爲大臣者當陳其才力、度己所任、以就其列位。不能則當自止退也)とある。また『集注』に「周任は、古えの良史。陳は、布くなり。列は、位なり」(周任、古之良史。陳、布也。列、位也)とある。
  • 危而不持、顚而不扶、則将焉用彼相矣 … 『集解』に引く包咸の注に「言うこころは人を輔相する者は、当に能く危うきを持してたうるを扶くべし。若し能わざれば、何を用て相たらんや」(言輔相人者、當能持危扶顚。若不能、何用相爲也)とある。また『義疏』に「既に量りて就く。汝今人の臣と為り、臣の用を為す。正にきょうひつするに至り、危を持し顚を扶く。今し季氏濫伐を為さんと欲せば、此れは是れ危顚の事なり。汝宜しく諫止すべし。而るに汝諫止せずんば、乃ち夫子之を欲すと云う。吾等欲せざれば、則ち何ぞ汝を用いて彼の輔相と為さんや。若し必ずしも能わずんば、是れ量りて之に就かざるなり」(既量而就。汝今爲人之臣、臣之爲用。正至匡弼、持危扶顚。今假季氏欲爲濫伐、此是危顚之事。汝宜諫止。而汝不諫止、乃云夫子欲之。吾等不欲、則何用汝爲彼之輔相乎。若必不能、是不量而就之也)とある。また『注疏』に「相は、輔相するを謂う。焉は、何なり。言うこころは人を輔相する者は、当に其の主の傾危を持し、其の主の顚躓を扶くべし。若し其れ能わずんば、何を用てか彼の相を為さん」(相、謂輔相。焉、何也。言輔相人者、當持其主之傾危、扶其主之顚躓。若其不能、何用彼相爲)とある。また『集注』に「相は、瞽者の相なり。言うこころは二子欲せざれば則ち当に諫むべし。諫めて聴かれざれば、則ち当に去るべきなり」(相、瞽者之相也。言二子不欲則當諫。諫而不聽、則當去也)とある。
  • 且爾言過矣。虎兕出於柙、亀玉毀於櫝中、是誰之過与 … 『集解』に引く馬融の注に「こうは、檻なり。とくは、櫃なり。典守する者の過ちに非ざるや」(柙、檻也。櫝、櫃也。非典守者之過邪也)とある。また『義疏』に「又た之を罵りて譬えを設くるなり。兕は、牛の如くにして色青し。柙は、檻なり。檻は虎兕を貯うるの器なり。櫝は、函なり。亀玉を貯うるの匣なり。言うこころは汝云う、吾二臣皆欲せざるなり、と。此れは是れ汝の罪なり。汝人の輔相と為り、当に主に君の失を諫むべし。譬えば人の為に虎兕、亀玉を掌にするが如し。若し虎兕をして檻を破りて逸出し、及び亀玉をして函櫝の中に毀砕せしむるは、此れは是れ誰の過ちならん。則ち豈に檻函を守る者の過ちに非ずや。今季氏濫伐す、此れは是れ誰の過ちならん。則ち豈に汝輔相の過ちに非ずや。何ぞ吾二臣欲せずと言うを得んや」(又罵之而設譬也。兕、如牛而色青。柙、檻也。檻貯於虎兕之器也。櫝、函也。貯龜玉之匣也。言汝云、吾二臣皆不欲也。此是汝之罪也。汝爲人輔相、當主諫君失。譬如爲人掌虎兕龜玉。若使虎兕破檻而逸出、及龜玉毀碎於函櫝之中、此是誰過。則豈非守檻函者過乎。今季氏濫伐、此是誰過。則豈非汝輔相之過乎。何得言吾二臣不欲耶)とある。また『注疏』に「此れ又た輔相の人の為に譬えを作すなり。柙は、檻なり。櫝は、匱なり。虎兕は皆猛獣なり、故に檻を設けて以て之を制す。亀玉は皆大宝なり、故に匱を設けて以て之を蔵す。若し虎兕檻を失い出で、亀玉匱中に損毀せば、是れ誰の過ちぞや。言うこころは是れ典守の者の過ちなり。以て主君に闕くること有るは、是れ輔相者の過ちなるに喩うるなり」(此又爲輔相之人作譬也。柙、檻也。櫝、匱也。虎兕皆猛獸、故設檻以制之。龜玉皆大寶、故設匱以藏之。若虎兕失出於檻、龜玉損毀於匱中、是誰之過與。言是典守者之過也。以喩主君有闕、是輔相者之過也)とある。また『集注』に「兕は、野牛なり。柙は、檻なり。櫝は、匱なり。言うこころは柙に在りて逸し、櫝に在りて毁るれば、典守する者其の過を辞するを得ず。二子其の位に居て去らざれば、則ち季氏の悪、己其の責を任ぜざるを得ざるを明らかにするなり」(兕、野牛也。柙、檻也。櫝、匱也。言在柙而逸、在櫝而毁、典守者不得辭其過。明二子居其位而不去、則季氏之惡、己不得不任其責也)とある。
  • 於柙 … 『義疏』に「於」の字なし。
  • 於櫝中 … 『義疏』に「於」の字なし。
  • 今夫顓臾、固而近於費 … 『集解』に引く馬融の注に「固しは、城郭の完堅にして、兵甲の利なるを謂うなり。費は、季氏の邑なり」(固、謂城郭完堅、兵甲利也。費、季氏之邑也)とある。また『義疏』に「固は、城郭、甲兵の堅利なるを謂う。費は、季氏の采邑の名なり。冉有既に孔子の罵り及び譬喩を得たり。而して輸誠して罪に服するも、更に顓臾宜しく伐つべきの意を説くなり。言うこころは顓臾を伐つ所以の者は、城郭、甲兵堅利にして、復た季氏の邑と之れに相近ければなり」(固、謂城郭甲兵堅利。費、季氏采邑名也。冉有既得孔子罵及譬喩。而輸誠服罪、更説顓臾宜伐之意也。言所以伐顓臾者、城郭甲兵堅利、復與季氏邑相近之也)とある。また『注疏』に「此れ冉有乃ち自ら顓臾を伐たんと欲するの意を言うなり。固は、城郭の完堅、兵甲のきを謂うなり。費は、季氏の邑なり」(此冉有乃自言欲伐顓臾之意也。固、謂城郭完堅、兵甲利也。費、季氏邑)とある。また『集注』に「固は、城郭の完固なるを謂う。費は、季氏の私邑なり」(固、謂城郭完固。費、季氏之私邑)とある。
  • 今不取、後世必為子孫憂 … 『義疏』に「子孫は、季氏の子孫なり。冉有又た言う、顓臾既に城郭堅くして甲兵利なり。又た費邑と相近し。其の勢力方に豪なり。其れ今日に及んで猶お撲滅す可し。若し今日伐ち取らば、則ち其の後世必ず費を伐たん。後世の子孫の憂いと為る所以なり」(子孫、季氏之子孫也。冉有又言、顓臾既城郭堅甲兵利。又與費邑相近。其勢力方豪。其及今日猶可撲滅。若今日不伐取、則其後世必伐於費。所以爲後世子孫之憂也)とある。なお、底本では「不伐取」に作るが「伐取」に改めた。また『注疏』に「言うこころは今夫の顓臾の城郭・甲兵は堅固にして、又た費邑に近し。若し今伐ちて之を取るをせずんば、後世必ず季氏の子孫の憂いと為らん」(言今夫顓臾城郭甲兵堅固、而又近於費邑。若今不伐而取之、後世必爲季氏子孫之憂也)とある。また『集注』に「此れ則ち冉有の飾辞なり。然れども亦た其の実は季氏の謀にあずかるを見る可し」(此則冉有之飾辭。然亦可見其實與季氏之謀矣)とある。
  • 孔子曰、求、君子疾夫舎曰欲之、而必為之辞 … 『集解』に引く孔安国の注に「汝の言の如きをにくむなり。其の利を貪らんとするの説をきて、更に他辞をすは、是れ疾む所なり」(疾如汝之言也。舍其貪利之説、而更作他辭、是所疾也)とある。また『義疏』に「孔子冉有の言を聞き、其の虚妄なるを知る。故に更に呼びて之にぐるなり。夫は、冉有の言を夫とするなり。季氏伐たんと欲するは、実に是れ顓臾の地を貪る。今汝季孫と言わざるは、是れ顓臾を貪りて伐ちて之を取らんと欲すればなり。而るに仮に云う、顓臾は固くして費に近し。恐らくは子孫の憂いと為らん、と。汝の此の言の如きは、是れ君子の所謂疾むなり。故に云う、君子は疾むなり、と。此れは是れ君子の疾む所の者なり。捨は、猶お除のごときなり。冉有は季氏の貪欲、濫伐をわず。是れ之を欲すと曰うを捨てて、顓臾固く費に近きを仮称す。是れ是として必ず之が辞を為す」(孔子聞冉有言、知其虚妄。故更呼而語之也。夫、夫冉有之言也。季氏欲伐、實是貪顓臾之地。今汝不言季孫、是貪顓臾欲伐取之。而假云、顓臾固而近費。恐爲子孫憂。如汝此言、是君子之所謂疾也。故云、君子疾夫也。此是君子所疾者也。捨、猶除也。冉有不道季氏貪欲濫伐。是捨曰欲之、而假稱顓臾固近費。是是而必爲之辭)とある。また『注疏』に「孔子冉有の将に顓臾を伐たんとするの意を言うを見る、故に又た冉有の名を呼びて之を責む。汝の言の如きは、君子の憎疾する所なり。夫れ其の利を貪るの説を舎きて、更めて他辞を作すを以てするは、是れ疾む所なり」(孔子見冉有言將伐顓臾之意、故又呼冉有名而責之。如汝之言、君子所憎疾。夫以舍其貪利之説、而更作他辭、是所疾也)とある。また『集注』に「之を欲すは、其の利を貪るを謂う」(欲之、謂貪其利)とある。
  • 而必爲之辭 … 『義疏』では「而必更爲之辭」に作る。
  • 丘也聞、有国有家者、不患寡而患不均 … 『集解』に引く孔安国の注に「国とは、諸侯なり。家とは、卿・大夫なり。土地人民の寡少なるを患えず。政治の均平ならざるを患うるなり」(國者、諸侯。家者、卿大夫也。不患土地人民之寡少。患政治之不均平也)とある。また『義疏』に「孔子冉有を罵りて既に竟わりて、更に自ら名を称し、為に其れ季氏の子孫の憂い、顓臾ならざるを説くなり。将に之を言うことを欲せんとす。故に先ず広く其の理を陳ぶるなり。敢えて己に出づと云わず、故に聞くと曰うなり。国を有つは、諸侯を謂うなり。家を有つは、卿大夫を謂うなり。言うこころは夫れ諸侯及び卿大夫たる者は、土地人民の寡少を患えず。患うる所は、政の均平にする能わざるのみ。今、季氏の政を為すこと、均平にする能わざれば、則ち何を用てか濫伐し、土地人民を多くして為さんことを欲するや」(孔子罵冉有既竟、而更自稱名、爲其説季氏子孫之憂、不顓臾也。將欲言之。故先廣陳其理也。不敢云出己、故曰聞也。有國、謂諸侯也。有家、謂卿大夫也。言夫爲諸侯及卿大夫者、不患土地人民寡少。所患、政之不能均平耳。今季氏爲政、不能均平、則何用濫伐、欲多土地人民爲也)とある。また『注疏』に「此の下は孔子又たために其の正治の法を言いて、以て臆説に非ざるを示す。故に丘や聞けりと云う。国は、諸侯を謂う。家は、卿大夫を謂う。言うこころは諸侯・卿大夫たる者は、土地・人民の寡少なるを患えず、但だ政理の均平ならざるを患うるのみなり」(此下孔子又爲言其正治之法、以示非臆説。故云丘也聞。國、謂諸侯。家、謂卿大夫。言爲諸侯卿大夫者、不患土地人民之寡少、但患政理之不均平也)とある。
  • 不患貧、而患不安 … 『集解』に引く孔安国の注に「民を安んずる能わざるを憂うるのみ。民安んずれば則ち国富めるなり」(憂不能安民耳。民安則國富也)とある。また『義疏』に「国家をおさむる者は、何ぞ民の貧乏を患えんや。政は民をして安からしむる能わざるを患う」(爲國家者、何患民貧乏也。政患不能使民安)とある。また『注疏』に「言うこころは国家の貧しきを憂えず、但だ民を安んずること能わざるを憂うるのみ。民安んぜば則ち国富めるなり」(言不憂國家貧、但憂不能安民耳。民安則國富也)とある。また『集注』に「寡は、民の少なきを謂う。貧は、財の乏しきを謂う。均は、各〻其の分を得るを謂う。安は、上下相安んずるを謂う」(寡、謂民少。貧、謂財乏。均、謂各得其分。安、謂上下相安)とある。
  • 蓋均無貧、和無寡、安無傾 … 『集解』に引く包咸の注に「政教均平なれば、則ち貧しからず。上下和同すれば、寡なきを患えず。小大安寧なれば、傾危せざるなり」(政教均平、則不貧矣。上下和同、不患寡矣。小大安寧、不傾危也)とある。また『義疏』に「前事を結ぶなり。此れ前の貧しからざるの事を結ぶなり。若し為政均平なれば、則ち国家自ら富み、故に貧乏無きなり。此れ寡ならざるを結ぶなり。言うこころは政若し能く和すれば、則ち四方より来たり至る。故に土地民人寡少ならざるなり。若し能く民安ければ、則ち君傾危せざるなり。然して上に云う、寡を患えず、均しからざるを患う、貧を患えず、安からざるを患う、と。則ち応じて云う、均しければ寡無し、安ければ傾くこと無し、と。今云う、均しければ貧無く、和すれば寡無し、と。又た長く安ければ傾くこと無しと云うは、並びに相互に義を為すこと、均和に由る。故に安ければ之に傾くこと無きなり」(結前事也。此結前不貧之事也。若爲政均平、則國家自富、故無貧乏也。此結不寡也。言政若能和、則四方來至。故土地民人不寡少也。若能安民、則君不傾危也。然上云、不患寡、患不均、不患貧、患不安。則應云、均無寡、安無傾。今云、均無貧、和無寡。又長云安無傾者、竝相互爲義、由均和。故安無傾之也)とある。また『注疏』に「孔子既に其の聞く所を陳べ、更に為に其の理を言う。蓋し言うこころは政教均平ならば、則ち貧しからず。上下和同せば、寡なきことを患えず。小大安寧ならば、傾危せざらん、と。上の聞く所の如くんば、此は応に、均しくば寡なきこと無く、安ければ貧しきこと無しと云うべきも、而も此に乃ち、均しくば貧しきこと無く、和せば寡なきこと無く、安ければ傾くこと無からんと云うは、政教の均平なるは、又た須らく上下和睦すべく、然る後に国は富み民は多くして、社稷は傾危せざるをあらわさんと欲し、故に其の文を衍するのみ」(孔子既陳其所聞、更爲言其理。蓋言政教均平、則不貧矣。上下和同、不患寡矣。小大安寧、不傾危矣。如上所聞、此應云、均無寡、安無貧、而此乃云、均無貧、和無寡、安無傾者、欲見政教均平、又須上下和睦、然後國富民多、而社稷不傾危也、故衍其文耳)とある。また『集注』に「季氏の顓臾を取らんと欲するは、寡と貧とを患うるのみ。然るに是の時季氏国に拠りて、魯公民無ければ、則ち均しからず。君弱く臣強く、互いに嫌隙を生ずれば、則ち安からざるなり。均しければ則ち貧しきを患えずして和す。和せば則ち寡なきを患えずして安んず。安ければ則ち相疑忌せずして、傾覆の患い無し」(季氏之欲取顓臾、患寡與貧耳。然是時季氏據國、而魯公無民、則不均矣。君弱臣強、互生嫌隙、則不安矣。均則不患於貧而和。和則不患於寡而安。安則不相疑忌、而無傾覆之患)とある。
  • 夫如是。故遠人不服、則修文徳以来之。既来之、則安之 … 『義疏』に「此れ寡少を患えざるの由を明らかにするなり。是の如しは、猶お此くの如しのごときなり。若し国家の政能く此くの如くんば、安くして傾かざる者なり。若し遠人猶お化に服せざる者有れば、則ち我広く文徳を朝に修めて、彼をして徳を慕いて来り至らしむるなり。故に舜は干羽を両階に舞いて苗民至る。遠方より既に至れば、則ち又た徳沢を用いて之を撫安す」(此明不患寡少之由也。如是、猶如此也。若國家之政能如此、安不傾者。若遠人猶有不服化者、則我廣修文德於朝、使彼慕德而來至也。故舜舞干羽於兩階而苗民至。遠方既至、則又用德澤撫安之)とある。また『注疏』に「言うこころは夫れ政教の能く均平、和安なること此くの如し、故に遠方の人に服せざる者有らば、則ち当に文徳を修め、遠人をして其の徳化を慕いて来たらしむるべし。遠人既に来たらば、当に恩恵を以て之を安存すべし」(言夫政教能均平、和安如此、故遠方之人有不服者、則當脩文德、使遠人慕其德化而來。遠人既來、當以恩惠安存之)とある。また『集注』に「内治修まり、然る後に遠人服す。服さざること有れば、則ち徳を修め以て之をきたす。亦た当に兵を遠くに勤めしむべからず」(内治脩、然後遠人服。有不服、則脩德以來之。亦不當勤兵於遠)とある。
  • 以来之 … 『義疏』では「以来也」に作る。
  • 今由与求也、相夫子 … 『義疏』に「夫子は、季氏なり。言うこころは今汝と由と、二人季氏をたすくるも、恩徳無きなり」(夫子、季氏也。言今汝及由、二人相於季氏、無恩德也)とある。また『注疏』に「冉有・季路の季氏を輔相するを謂うなり」(謂冉有季路輔相季氏也)とある。また『集注』に「子路は謀にあずからずと雖も、而れどももとより之を輔くるに義を以てすること能わず。亦た罪無しと為すを得ず。故に併せて之を責む」(子路雖不與謀、而素不能輔之以義。亦不得爲無罪。故倂責之)とある。
  • 遠人不服、而不能来也 … 『義疏』に「言うこころは汝二人季氏のしょうたるも、文徳を修めて以て遠人をきたし服すること能わざるなり」(言汝二人爲季氏相、不能修文德以來服遠人也)とある。また『注疏』に「文徳を修めざるを謂うなり」(謂不脩文德也)とある。また『集注』に「遠人は、顓臾を謂う」(遠人、謂顓臾)とある。
  • 邦文崩離析、而不能守也 … 『集解』に引く孔安国の注に「民に異心有るを分と曰い、去らんと欲するを崩と曰い、会聚す可からざるを離析と曰うなり」(民有異心曰分、欲去曰崩、不可會聚曰離析也)とある。また『義疏』に「言うこころは汝二人季氏をたすく。季氏魯を治む。既に外遠人をきたさずして、内又た離析して国を守ること能わざるなり」(言汝二人相季氏。季氏治魯。既外不來遠人、而内又離析不能守國也)とある。また『注疏』に「民に異心有るを分と曰う。去らんと欲するを崩と曰う。会聚す可からざるを離析と曰う。言うこころは国内の民をば、又た恩恵を以て安撫すること能わず、異心有りて、会聚す可からず、能く固守すること莫きを致すなり」(民有異心曰分。欲去曰崩。不可會聚曰離析。言國内之民、又不能以恩惠安撫、致有異心、不可會聚、莫能固守也)とある。また『集注』に「分崩離析は、公室を四分し、家臣屢〻しばしばそむくを謂う」(分崩離析、謂四分公室、家臣屢叛)とある。
  • 而謀動干戈於邦内 … 『集解』に引く孔安国の注に「干は、楯なり。戈は、戟なり」(干、楯也。戈、戟也)とある。また『義疏』に「汝ら二人既に遠きを来し近きを安んずる能わず。而して唯だ与に干戈を動かし、以て自ら邦国内地を伐たんことを知るのみなるは、何ぞや」(汝二人既不能來遠安近。而唯知與動干戈、以自伐邦國内地、何也)とある。また『注疏』に「将に顓臾を伐たんとするを謂うなり」(謂將伐顓臾也)とある。また『集注』に「干は、楯なり。戈は、戟なり」(干、楯也。戈、戟也)とある。
  • 吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之内也 … 『集解』に引く鄭玄の注に「蕭の言や粛なり。蕭牆は、屏を謂うなり。君臣相見の礼は、屏に至りて粛敬を加う。是を以て之を蕭牆と謂う。後に季氏の家臣の陽虎、果たして季桓子をとらうるなり」(蕭之言肅也。蕭牆、謂屏也。君臣相見之禮、至屏而加肅敬焉。是以謂之蕭牆。後季氏之家臣陽虎、果囚季桓子也)とある。また『義疏』に「冉有云う、顓臾は費に近し。恐らくは後世の子孫の憂いと為らん、と。孔子広く事理を陳ぶるなり。已に竟わり、故に此に改めて答うるなり。言うこころは我の思う所、恐らくは汝に異なれり。汝は顓臾を恐るるも、我は季孫後世の憂い、顓臾に在らざらんことを恐るるなり。此れ季孫の憂うる所の者なり。蕭は、粛なり。牆は、屏なり。人君は門に於いて樹屏す。臣来たりて屏に至りて起ちて粛敬す。故に屏を謂いて蕭牆と為すなり。臣朝せしとき君の位は蕭牆の内に在るなり。今云う、季孫の憂いは蕭牆の内に在らん、と。季孫の臣必ず乱をおこすを謂うなり。然して天子は外屏、諸侯は内屏、大夫は簾を以てし、士は帷を以てす。季氏は是れ大夫なり。応に屏無くして蕭牆と云うべき者は、季氏皆僭して之を為せばなり。蔡謨云う、冉有、季路並びに王佐の姿を以て、彼の家相の任に処る。豈に季孫を諫めずして以て其の悪を成すこと有らんや。其の謀を同じうする所以の者は、将にゆえ有らんとするなり。己を量り勢いを揆し、其の悖心はいしんを外に制する能わずして、其の意に順い、以て夫子に告ぐ。実に大聖の言を致して以て斯の弊を救わんと欲す。是を以て夫子大義を発明して、以て来感に酬い、弘く治体を挙げ、自ら時の難を救う。虎兕を引喩して、以て相たる者を罪するを為す。文二子を譏ると雖も、而れども旨は季孫に在り。既に危に安んずるの理を示す。又た強臣の命をほしいままにするを抑う。二者兼著し、以て社稷をやすんず。斯れ乃ち聖賢符を同じうし、表裏を相為す者なり。然るに文を守る者衆くして、微に達する者寡なきなり。其の見軌をて、其の玄致を昧ます。但だ其の辞するをき、辞する所以を釈かず。二子の見幽、将に長く腐学にしずまんとするを懼る。是を以て之を正すにらいの旨を以てするなり、と」(冉有云、顓臾近費。恐爲後世子孫憂。孔子廣陳事理也。已竟故此改答也。言我之所思、恐異於汝也。汝恐顓臾、而我恐季孫後世之憂、不在於顓臾也。此季孫所憂者也。蕭、肅也。牆、屏也。人君於門樹屏。臣來至屏而起肅敬。故謂屏爲蕭牆也。臣朝君之位在蕭牆之内也。今云、季孫憂在蕭牆内。謂季孫之臣必作亂也。然天子外屏、諸侯内屏、大夫以簾、士以帷。季氏是大夫。應無屏而云蕭牆者、季氏皆僭爲之也。蔡謨云、冉有季路竝以王佐之姿、處彼家相之任。豈有不諫季孫以成其惡。所以同其謀者、將有以也。量己揆勢、不能制其悖心於外、順其意、以告夫子。實欲致大聖之言以救斯弊。是以夫子發明大義、以酬來感、弘舉治體、自救時難。引喩虎兕、爲以罪相者。雖文譏二子、而旨在季孫。既示安危之理。又抑強臣擅命。二者兼著、以寧社稷。斯乃聖賢同符、相爲表裏者也。然守文者衆、達微者寡也。覩其見軌、而昧其玄致。但釋其辭、不釋所以辭。懼二子之見幽、將長淪於腐學。是以正之以莅來旨也)とある。また『注疏』に「蕭牆は、屏を謂うなり。蕭の言たる粛なり。君臣相見の礼にては、屏に至りて粛敬を加う。是を以て之を蕭牆と謂う。孔子は聖人なれば、先見の明有り。季氏の家臣命を擅にするを見、必ず将に季氏の禍と為らんとするを知る。冉有の、顓臾は後世必ず子孫の憂いと為らん、と言うに因り、故に、吾は季孫の憂いは遠く顓臾に在らずして、近く蕭牆の内に在るを恐る、と言う。後に季氏の家臣の陽虎果たして季桓子を囚う」(蕭牆、謂屏也。蕭之言肅也。君臣相見之禮、至屏而加肅敬焉。是以謂之蕭牆。孔子聖人、有先見之明。見季氏家臣擅命、必知將爲季氏之禍。因冉有言顓臾後世必爲子孫憂、故言吾恐季孫之憂不遠在顓臾、而近在蕭牆之内。後季氏家臣陽虎果囚季桓子)とある。また『集注』に「蕭墻は、屏なり。言うこころは均しからず和せざれば、内変将におこらんとす。其の後、哀公果たして越を以て魯を伐ちて季氏を去らんと欲す」(蕭墻、屏也。言不均不和、内變將作。其後哀公果欲以越伐魯而去季氏)とある。
  • 不在顓臾 … 『義疏』では「不在於顓臾」に作る。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「是の時に当たりて、三家強く、公室弱し。冉求又た顓臾を伐ちて以て之を附益せんと欲す。夫子の深く之を罪する所以なり。其の魯をせしめて以て三家を肥やしむるが為なり」(當是時、三家強、公室弱。冉求又欲伐顓臾以附益之。夫子所以深罪之。爲其瘠魯以肥三家也)とある。
  • 『集注』に引く洪興祖の注に「二子季氏に仕う、凡そ季氏の為さんと欲する所、必ず以て夫子に告ぐれば、則ち夫子の言に因りて救い止まる者、宜しく亦た多かるべし。顓臾を伐つの事は、経伝に見えず。其れ夫子の言を以て止むならんか」(二子仕於季氏、凡季氏所欲爲、必以告於夫子、則因夫子之言而救止者、宜亦多矣。伐顓臾之事、不見於經傳。其以夫子之言而止也與)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「すくなきを患えずして均しからざるを患え、貧しきを患えずして安からざるを患う。此の二句、下分に拠れば、当に貧しきを患えずして均しからざるを患え、寡なきを患えずしてやわらがざるを患え、傾くを患えずして安らかざるを患うに作るべし。……文徳は、礼楽法度の類の如し。……人皆目前の小利を視て、後来の大害を知らざるは、天下の通患なり。後世武を講ずる者、豈に是くの如くにして能く其の利をくと曰わざらん。殊に知らず苟くも其の内均しからず安からず和せざるは、則ち敵未だ刃をぬらざるに、ちゅうえきを変生して、復た救う可からず」(不患寡而患不均、不患貧而患不安。此二句、據下分、當作不患貧而患不均、不患寡而患不和、不患傾而患不安。……文德、如禮樂法度之類。……人皆視目前之小利、而不知後來之大害、天下之通患也。後世講武者、豈不曰如是而能享其利乎。殊不知苟其内不均不安不和、則敵未䘐刃、而變生肘腋、不可復救焉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「国をたもち家を有つ者、すくなきを患えずして均しからざるを患う。貧しきを患えずして安からざるを患う。蓋し均しければ貧しきこと無し。和すれば寡なきこと無し。安ければ傾くこと無し。寡は民の少なきを謂う。寡なきを患えずして均しからざるを患うとは、均しからざるときは則ちしも怨み、怨むときは則ちおおしと雖も寡なきにかざればなり。貧しきを患えずして安からざるを患うとは、安からざるときは則ち富むと雖も必ず傾けばなり。均しければ貧しきこと無しとは、均しきときは則ちざい我に在らずして彼に在りと雖も、彼我ひがを合するときは則ち何の貧しきことか之れ有らん。即ちゆうじゃくが百姓足らば君たれともに足らざらんの意。和すれば寡なきこと無しとは、上下和して力専らなり。何の寡なきことか之れ有らん。主意は均の字に在り。均しきときは則ち和して安し。寡と貧とも亦た相因る。而うして地狭く民寡なきを患うる者をもとと為す。聖人の治乱安危の故を論ずること、環の端無きが如しと謂う可きのみ。仁斎乃ち曰く、下文に拠らば、当に、貧しきを患えずして均しからざるを患え、寡なきを患えずしてやわらがざるを患え、傾くを患えずして安からざるを患うに作るべし、と。古文辞を識らずしてたやすく論語を改めんと欲す。真に妄人なるかな。文徳を修むは、書に出づ。曰く、帝乃ちおおいに文徳を敷き、かんを両階に舞わす。七旬にしてゆうびょういたる、と。礼楽を謂うなり。仁斎曰く、礼楽法度の類の如し、と。法度豈に之を徳と謂うけんや」(有國有家者、不患寡而患不均。不患貧而患不安。蓋均無貧。和無寡。安無傾。寡謂民少。不患寡而患不均者、不均則下怨、怨則雖衆不如寡也。不患貧而患不安者、不安則雖富必傾也。均無貧者、均則財雖不在我而在彼、合彼我則何貧之有。即有若百姓足君孰與不足意。和無寡者、上下和而力專。何寡之有。主意在均字。均則和而安。寡與貧亦相因。而患地狹民寡者爲本。聖人之論治亂安危之故、可謂如環無端已。仁齋乃曰、據下文、當作不患貧而患不均、不患寡而患不和、不患傾而患不安。不識古文辭而輙欲改論語。眞妄人哉。脩文德、出書。曰、帝乃誕敷文德、舞干羽于兩階。七旬有苗格。謂禮樂也。仁齋曰、如禮樂法度之類。法度豈容謂之德乎)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十