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憲問第十四 5 子曰有德者必有言章

337(14-05)
子曰、有德者必有言。有言者不必有德。仁者必有勇。勇者不必有仁。
いわく、とくものかならげんり。げんものかならずしもとくらず。仁者じんしゃかならゆうり。勇者ゆうしゃかならずしもじんらず。
現代語訳
  • 先生 ――「能のある人は、きっと意見をいう。意見をいう人が、能があるとはかぎらぬ。人道的な人は、きっと勇気がある。勇気のある人が、人道的とはかぎらぬ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「徳のある人には必ず善い言葉がある。なぜならば、心中に蓄積された盛徳せいとくがおのずから外にあふれ出て言葉となるからだ。しかしい言葉のある人が必ずしも徳のある人ではない。なぜならば、言葉はその人の真情から出るものとばかりは限らず、口先のみのこともあるからだ、仁者は必ず勇者である。なぜならば、心に私なく正義を断行するからだ。しかし勇者は必ずしも仁者ではない。なぜならば、勇には正義によらぬ血気の勇もあるからだ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「有徳の人は必ずよいことをいう。しかしよいことをいう人、必ずしも有徳の人ではない。仁者には必ず勇気がある。しかし勇者必ずしも仁者ではない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 必有言 … 必ずよいことを言う。
  • 不必有徳 … 必ずしも徳があるとは限らない。
  • 不必 … 「かならずしも~ず」と読み、「必ず~であるとは限らない」と訳す。部分否定の形。なお「必不」は「かならず~ず」と読み、「必ず~でない」と訳す。全部否定の形。
  • 必有勇 … 必ず勇気が具わっている。
  • 不必有仁 … 必ずしも仁があるとは限らない。「血気の勇(後先のことを考えない勇気)」などを指して言っている。
補説
  • 『注疏』に「此の章は徳有り仁有る者の行いを言うなり」(此章言有德有仁者之行也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子曰、有徳者必有言 … 『集解』の何晏の注に「徳はおもいを以てつ可からず。故に必ず言有るなり」(德不可以憶中。故必有言也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「既に徳有れば、則ち其の言語は必ず中つなり。故に必ず言有るなり」(既有德、則其言語必中。故必有言也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「徳は以て言うこと無くして億いもて中つ可からず、故に必ず言有るなり」(德不可以無言億中、故必有言也)とある。また『集注』に「徳有る者は、和順中に積み、英華外に発す」(有德者、和順積中、英華發外)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 有言者不必有徳 … 『義疏』に「人必ず言多し。故に必ずしも徳有らざるなり。殷仲堪云う、理を修め道を蹈むは、徳の義なり。徳に由りて言有り、言則ち未だし。未だむ可からずして本と仮ること無し。故に徳有る者必ず言有り、言有る者必ずしも徳有らざるなり、と。李充曰く、甘辞、利口は是に似て非なる者にして、佞巧の言なり。成敗を敷陳し、合縦連横する者は、説客の言なり。凌誇の談、方論多き者は、弁士の言なり。徳音高く合し、発して明訓を為し、声天下に満ち、全く有徳の言を出だすが若きなり。故に徳有れば必ず言有り。言有るは必ずしも徳有らざるなり、と」(人必多言。故不必有德也。殷仲堪云、修理蹈道、德之義也。由德有言、言則未矣。未可矯而本無假。故有德者必有言、有言者不必有德也。李充曰、甘辭利口似是而非者、佞巧之言也。敷陳成敗、合縱連横者、説客之言也。凌誇之談多方論者、辯士之言也。德音高合、發爲明訓、聲滿天下、若出全有德之言也。故有德必有言。有言不必有德也)とある。また『注疏』に「弁佞べんねいこうきゅうは、必ずしも徳有らざるなり」(辯佞口給、不必有德也)とある。弁佞は、口先がうまくこびへつらうこと。口給は、口が達者なこと。また『集注』に「能く言う者は、或いは便佞・口給のみ」(能言者、或便佞口給而已)とある。
  • 仁者必有勇 … 『義疏』に「身を殺して仁を成す。故に必ず勇有るなり」(殺身成仁。故必有勇也)とある。また『注疏』に「危うきを見て命を授け、身を殺して以て仁を成すは、是れ必ず勇有るなり」(見危授命、殺身以成仁、是必有勇也)とある。また『集注』に「仁者は、心に私累無く、義を見て必ず為す」(仁者、心無私累、見義必爲)とある。
  • 勇者不必有仁 … 『義疏』に「暴虎憑河、必ずしも仁有らざるなり。殷仲堪云う、誠に愛は私無し、仁の理なり。危うきを見て命を授く、身手の相救うが若きなり。道を存して生を忘る、斯れ仁たり。夫の強以て武をほしいままにし、勇以て物に勝ち、陵超して利をもとめ死を軽んずるに在るが若きは、元以て仁と為すに非ず。故に云う、仁者は必ず勇有り、勇者は必ずしも仁有らず、と。李充云う、陸行して虎兕こじを避けざる者は、猟夫の勇なり。水行して蛟竜を避けざる者は、漁父の勇なり。鋒刃前に交わり、死を視ること生の若き者は、烈士の勇なり。窮の命有るを知り、通の時有るを知り、大難に臨んで懼れざる者は、仁者の勇なり。故に仁者は必ず勇有り、勇者は必ずしも仁有らざるなり、と」(暴虎憑河、不必有仁也。殷仲堪云、誠愛無私、仁之理也。見危授命、若身手之相救焉。存道忘生、斯爲仁矣。若夫強以肆武、勇以勝物、陵超在於要利輕死、元非以爲仁。故云、仁者必有勇、勇者不必有仁。李充云、陸行而不避虎兕者、獵夫之勇也。水行不避蛟龍者、漁父之勇也。鋒刃交於前、視死若生者、烈士之勇也。知窮之有命、知通之有時、臨大難而不懼者、仁者之勇也。故仁者必有勇、勇者不必有仁也)とある。虎兕は、虎と一角獣。狂暴なものの意に用いられる。また『注疏』に「暴虎馮河の勇の若きは、必ずしも仁有らざるなり」(若暴虎馮河之勇、不必有仁也)とある。また『集注』に「勇者は、或いは血気の強なるのみ」(勇者、或血氣之強而已)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ専ら徳有る者は必ず言有り、仁者は必ず勇有ることを言うなり」(此專言有德者必有言、仁者必有勇也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』には、この章の注なし。
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