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顔淵第十二 6 子張問明章

284(12-06)
子張問明。子曰、浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂明也已矣。浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣。
ちょうめいう。いわく、しんじゅんそしりじゅうったえおこなわれざるは、めいきのみ。しんじゅんそしりじゅうったえおこなわれざるは、えんきのみ。
現代語訳
  • 子張が察しについてきく。先生 ――「ジワジワとやるわるくち、根も葉もない告げぐちが、通らないようなら、察しがよいといえるわけだ。ジワジワとやるわるくち、根も葉もない告げぐちが、通らないようなら、見通しがきくというわけだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 子張が、「明とはどういうことでありますか。」と質問した。孔子様がおっしゃるよう、「水のしみこむようなソシリにも火のつくようなウッタエにもたやすく動かされぬに至ってこそ、明というべきじゃ、遠というべきじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 子張が明察ということについてたずねた。先師はこたえられた。――
    「水がしみこむようにじりじりと人をそしる言葉や、傷口にさわるように、するどくうったえてくる言葉には、とかく人は動かされがちなものだが、そういう言葉にうかうかと乗らなくなったら、その人は明察だといえるだろう。いや、明察どころではない、達見の人といってもいいだろう」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 子張 … 前503~?。孔子の弟子。姓は顓孫せんそん、名は師、あざなは子張。陳の人。孔子より四十八歳年少。ウィキペディア【子張】参照。
  • 明 … 明察。明智。聡明。
  • 浸潤之譖 … 水が物にしみ込むような、非常に巧みな中傷・讒言ざんげん。「浸潤」は、液体がだんだんとしみ込むこと。「譖」は、じわじわと悪口をいうこと。そしること。
  • 膚受之愬 … 身を切るような痛切な訴え。「膚受」は、直接皮膚に感じる。切羽詰まったこと。「」は、訴え。
  • 不行焉 … 行われないようにする。「焉」は、置き字。読まない。状態の持続を示す助字。
  • 遠 … 明智の遠い先まで見抜くこと。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人の明徳を論ず」(此章論人之明德)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子張 … 『史記』仲尼弟子列伝に「顓孫せんそんは陳の人。あざなは子張。孔子よりわかきことじゅうはちさい」(顓孫師陳人。字子張。少孔子四十八歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顓孫師は陳人ちんひと、字は子張。孔子より少きこと四十八歳。人とり容貌資質有り。寬沖にして博く接し、従容として自ら務むるも、居りて仁義の行いを立つるを務めず。孔子の門人、之を友とするも敬せず」(顓孫師陳人、字子張。少孔子四十八歳。為人有容貌資質。寬沖博接、從容自務、居不務立於仁義之行。孔子門人、友之而弗敬)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 子張問明 … 『義疏』に「人の行い何事にして之を明と謂う可きかを問う」(問人行何事而可謂之明乎)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「孔子に何如ならば之を明徳と謂う可きかを問うなり」(問於孔子何如可謂之明德也)とある。
  • 子曰、浸潤之譖 … 『集解』に引く鄭玄の注に「人をそしるの言は、水の浸潤するが如く、以てようやく人の禍を成す」(譖人之言、如水之浸潤、以漸成人之禍)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「答うるなり。浸潤は、猶おぜんのごときなり。譖は、讒謗ざんぼうなり。夫れ拙に讒を為す者は、則ち人覚り易し。巧みに讒を為す者は、日日に漸漬して、細かに譖を進む。当時人をして受けて覚らざらしむること、水の浸潤漸漬久久にして必ず湿うるおうが如きなり。故に能く讒する者を浸潤の譖を為すと謂うなり」(答也。浸潤、猶漸漬也。譖、讒謗也。夫拙爲讒者則人易覺。巧爲讒者日日漸漬、細進譖。當時使人受而不覺、如水之浸潤漸漬久久必濕也。故謂能讒者爲浸潤之譖也)とある。また『集注』に「浸潤は、水の浸灌滋潤し、漸くひたしてにわかならざるが如きなり。譖は、人の行をそしるなり」(浸潤、如水之浸灌滋潤、漸漬而不驟也。譖、毀人之行也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 膚受之愬 … 『集解』に引く馬融の注に「じゅの愬は、皮膚外の語にして、其の内実に非ざるなり」(膚受之愬、皮膚外語、非其内實也)とある。また『義疏』に「膚とは、人の肉皮上の薄縐なり。愬とは、相訴訟する讒なり。拙に相訴うる者も亦た覚り易きなり。若し巧みに相訴え害する者も、亦た日日に積漸して稍〻やや進まば、人の皮膚の塵垢を受くるが如し。当時覚らずして、久久にして方にて浄ならず。故に能く人を訴え害する者を膚受の愬を為すと謂うなり」(膚者、人肉皮上之薄縐也。愬者、相訴訟讒也。拙相訴者亦易覺也。若巧相訴害者、亦日日積漸稍進、如人皮膚之受塵垢。當時不覺、久久方覩不淨。故謂能訴害人者爲膚受之愬也)とある。また『集注』に「じゅは、肌膚きふの受くる所の、利害の身に切なるを謂う。易の所謂牀をぐにはだえを以てし、切に災に近づくが如き者なり。は、己のえんうったうるなり」(膚受、謂肌膚所受、利害切身。如易所謂剝牀以膚、切近災者也。愬、愬己之冤也)とある。
  • 不行焉、可謂明也已矣 … 『義疏』に「言うこころは人若し彼の浸譖、膚訴の害を覚え、二事をして行わざらしむれば、則ち明有るを為すと謂う可きなり」(言人若覺彼浸譖、膚訴害、使二事不行、則可謂爲有明也)とある。また『注疏』に「此れ明を為すを答うるなり。夫れ水の浸潤するや、漸くにして以て物を壊る。皮膚の塵を受くるや、漸くにして垢穢を成す。人をそしるの言は、水の浸潤するが如し。皮膚の塵を受くるも、亦た漸くにして以て之を成し、人をして覚知せざらしむるなり。若し能く其の情偽を弁じ、譖愬の言をして行わざらしむれば、明徳と謂う可きなり」(此答爲明也。夫水之浸潤、漸以壞物。皮膚受塵、漸成垢穢。譖人之言、如水之浸潤。皮膚受塵、亦漸以成之、使人不覺知也。若能辨其情偽、使譖愬之言不行、可謂明德也)とある。
  • 浸潤之譖、膚受之愬、不行焉、可謂遠也已矣 … 『集解』に引く馬融の注に「此の二者無きは、但だに明と為すのみに非ず。其の徳行高遠にして、人能く之に及ぶこと莫し」(無此二者、非但爲明。其德行高遠、人莫能及之)とある。また『義疏』に「又た広く答うるなり。言うこころは若し二事をして行わざらしめば、唯に是れ明なるのみに非ず。亦た是れ高遠の徳なり。孫綽云う、明を問いて遠に及ぶ者は、其れ高旨有らんか。夫れ明察に頼りて以て讒に勝つこと、猶お火発して之を滅するに水を以てするがごとし。消災方有りと雖も、亦た已にあやうし。若し遠くして之を絶たば、則ち佞根玄抜し、鑑巧迹無し。而して遠体黙全す。故に二辞同じと雖も、而れども後喩弥〻いよいよ深きを知る。微顕の義、其れここに在らんや、と。顔延之云う、譖潤して行われざるは、明に由ると雖も、明見の深は、乃ち体遠より出づ。体遠は情偽に対せず。故に功は明見に帰す。其の功を斥言す。故に明と曰う。其の本を極言す。故に遠と曰うなり、と」(又廣答也。言若使二事不行、非唯是明。亦是高遠之德也。孫綽云、問明而及遠者、其有高旨乎。夫賴明察以勝讒、猶火發滅之以水。雖消災有方、亦已殆矣。若遠而絶之、則佞根玄抜、鑑巧無迹。而遠體默全。故知二辭雖同、而後喩彌深。微顯之義、其在茲乎。顏延之云、譖潤不行、雖由於明、明見之深、乃出於體遠。體遠不對於情偽。故功歸於明見。斥言其功。故曰明。極言其本。故曰遠也)とある。また『注疏』に「言うこころは人若し此の二者無くんば、但だに明と為すのみに非ず、其の徳行は高遠と謂う可し。人能く之に及ぶもの莫きなり」(言人若無此二者、非但爲明、其德行可謂高遠矣。人莫能及之也)とある。
  • 『集注』に「人をそしる者、漸くひたしてにわかならざれば、則ち聴く者其の入るを覚えずして、之を信ずること深し。えんうったうる者、急迫して身に切なれば、則ち聴く者詳らかなるを致すに及ばずして、之を発すること暴なり。二者察し難けれども、能く之を察すれば、則ち其の心の明にして、近きに蔽われざるを見る可し。此も亦た必ず子張の失に因りて之を告ぐ。故に其の辞は繁にしてがず。以て丁寧の意を致すと云う」(毀人者、漸漬而不驟、則聽者不覺其入、而信之深矣。愬冤者、急迫而切身、則聽者不及致詳、而發之暴矣。二者難察、而能察之、則可見其心之明、而不蔽於近矣。此亦必因子張之失而告之。故其辭繁而不殺。以致丁寧之意云)とある。
  • 『集注』に引く楊時の注に「にわかにして之に語ると、利害の身に切ならざる者と行われざるは、明なる者を待たずして之を能くすること有るなり。故に浸潤の譖、膚受の愬行われずして、然る後に之を明と謂いて、又た之を遠と謂う。遠は則ち明の至りなり。書に曰く、遠を視ることれ明、と」(驟而語之、與利害不切於身者不行焉、有不待明者能之也。故浸潤之譖、膚受之愬不行、然後謂之明、而又謂之遠。遠則明之至也。書曰、視遠惟明)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「譖は、人の行いをそしるなり。愬は、己の冤をうったうるなり。夫子は二つの者の行われざるを以て、最も其の人を難しとす。故に遠を兼ねて之を言うなり」(譖、毀人之行也。愬、愬己之冤也。夫子以二者不行、最難其人。故兼遠而言之)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「明とは、人の上たるの徳なり。故に古え明を言う者は、人の上たる者を以て之を言う。此の章是れなり。朱子以為おもえらく、子張の失に因りて之を告ぐ、と。此れ後世理を明らかにするの説おこりしよりして、人古言にくらく、故に或いは此の章の味い無きを疑うのみ。大氐たいてい人君察察の明を喜ぶ者は、必ず其の大臣を疑いて任ぜず、近習を以て其の耳目と為す。古今の通弊なり。故に孔子近臣におおわれざるを以て人君の明と為す。万世の至言と謂う可きのみ。……既に明と曰い又た遠と曰う者は書に曰く、遠きを視ること惟れ明、と。子張蓋し書を孔子に問うなり。夫れ遠きを視ること能わざる所以の者は、近きに蔽わるるが故なり」(明者爲人上之德也。故古言明者。以爲人上者言之。此章是也。朱子以爲因子張之失而告之。此自後世明理之説興、而人昧古言、故或疑此章之無味耳。大氐人君喜察察之明者、必疑其大臣而不任、以近習爲其耳目。古今通弊也。故孔子以不蔽於近臣爲人君之明。可謂萬世之至言已。……既曰明又曰遠者。書曰視遠惟明。子張蓋問書於孔子也。夫所以不能視遠者。蔽於近故也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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