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先進第十一 17 柴也愚章

270(11-17)
柴也愚、參也魯、師也辟、由也喭。
さいしんへきゆうがんなり。
現代語訳
  • 「高柴(サイ)はお人よし、曽参(ソウシン)は気がきかず、顓孫師(センソンシ、子張)はとりつくろい、仲由(子路)はあらっぽい。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様が四人の門人を評しておっしゃるよう、「さいはばか正直で融通ゆうずうがきかぬ。しんどんでのみ込みがよくない。はかたよって脱線的じゃ。ゆうぼうで行儀がわるい。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    さいは愚かで、しんはのろい。はお上手で、ゆうはがさつだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 柴 … 前521~?。孔子の門人。姓はこう、名はさいあざなこう。衛の人。また斉、また鄭の人。孔子より三十歳(また四十歳)若い。背が低く、醜男であったという。子路が彼を費の宰(代官)とした。ウィキペディア【高柴】(中文)参照。
  • 愚 … 愚直。馬鹿正直。
  • 参 … 曾子の名。「しん」と読み、「さん」とは読まない。あざな子輿しよ。魯の人。孔子より四十六歳年少の門人。『孝経』を著した。ウィキペディア【曾子】参照。
  • 魯 … 鈍いこと。のろま。遅鈍。
  • 師 … 孔子の弟子、子張の名。前503~?。姓は顓孫せんそん、名はあざなは子張。陳の人。孔子より四十八歳年少。ウィキペディア【子張】参照。
  • 辟 … 見栄っ張り。如才ない。奇矯。誇張。
  • 由 … 孔子の門人、子路の名。前542~前480。姓はちゅう。名はゆうあざなは子路、または季路。魯のべんの人。孔門十哲のひとり。孔子より九歳年下。門人中最年長者。政治的才能があり、また正義感が強く武勇にも優れていた。ウィキペディア【子路】参照。
  • 喭 … がさつ。粗暴。不作法。
補説
  • 『注疏』では次章の「億則屢中」までを本章とし、「此の章は孔子六弟子の徳行の中を失うを歴評するなり」(此章孔子歴評六弟子之德行中失也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 柴(高柴) … 『孔子家語』七十二弟子解に「高柴は斉人、高氏の別族、字は子羔。孔子よりわかきこと四十歳。長、六尺に過ぎず。状貌甚だ悪しくも、人と為り篤孝にして、法正有り。少くして魯に居り、名を孔子の門に知らる。仕えて武城の宰と為る」(高柴齊人、高氏之別族、字子羔。少孔子四十歳。長不過六尺。狀貌甚惡、爲人篤孝、而有法正。少居魯、見知名於孔子之門。仕爲武城宰)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「高柴、字は子羔。孔子よりわかきこと三十歳。子羔、たけ、五尺にたず。業を孔子に受く。孔子以て愚と為す。子路、子羔をして費の宰たらしむ。孔子曰く、の人の子をそこなう、と。子路曰く、民人有り、社稷有り。何ぞ必ずしも書を読みて然る後に学と為さんや、と。孔子曰く、是の故に夫の佞者を悪む、と」(髙柴字子羔。少孔子三十歳。子羔長不盈五尺。受業孔子。孔子以爲愚。子路使子羔爲費宰。孔子曰、賊夫人之子。子路曰、有民人焉、有社稷焉。何必讀書然後爲學。孔子曰、是故惡夫佞者)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 柴也愚 … 『集解』の何晏の注に「弟子の高柴なり。字は子羔。愚は、愚直の愚なり」(弟子高柴也。字子羔。愚、愚直之愚也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れ以下、数子各〻累有るを評するなり。柴は、弟子なり。其の累は愚に在るなり。王弼云う、愚は、仁を好んで過ぐるなり、と」(此以下評數子各有累也。柴、弟子也。其累在於愚也。王弼云、愚好仁過也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「高柴の性は愚直なり」(高柴性愚直也)とある。また『集注』に「柴は、孔子の弟子、姓は高、字は子羔。愚とは、知足らずして厚きこと余り有り。家語に記す、其の足は影を履まず。啓蟄には殺さず。方に長ぜんとするを折らず。親の喪を執り、泣血すること三年、未だ嘗て歯をあらわさず。難を避けて行くに、径せずとうせず、と。以て其の人とりを見る可し」(柴、孔子弟子、姓高、字子羔。愚者、知不足而厚有餘。家語記、其足不履影。啓蟄不殺。方長不折。執親之喪、泣血三年、未嘗見齒。避難而行、不徑不竇。可以見其爲人矣)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 参(曾子) … 『孔子家語』七十二弟子解に「曾参は南武城の人、あざなは子輿。孔子よりわかきこと四十六歳。志孝道に存す。故に孔子之に因りて以て孝経を作る」(曾參南武城人、字子輿。少孔子四十六歳。志存孝道。故孔子因之以作孝經)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「曾参は南武城の人。字は子輿。孔子より少きこと四十六歳。孔子以為おもえらく能く孝道に通ずと。故に之に業を授け、孝経を作る。魯に死せり」(曾參南武城人。字子輿。少孔子四十六歳。孔子以爲能通孝道。故授之業、作孝經。死於魯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 参也魯 … 『集解』に引く孔安国の注に「魯は、鈍なり。曾子は遅鈍なり」(魯、鈍也。曾子遲鈍也)とある。また『義疏』に「参は、曾参なり。魯は、遅鈍なり。言うこころは曾子の性は遅鈍なり。王弼云う、魯は、質文に勝れるなり、と」(參、曾參也。魯、遲鈍也。言曾子性遲鈍也。王弼云、魯、質勝文也)とある。また『注疏』に「曾参の性は遅鈍なり」(曾參性遲鈍也)とある。また『集注』に「魯は、鈍なり」(魯、鈍也)とある。また『集注』に引く程顥の注に「参やついに魯を以て之を得たり」(參也竟以魯得之)とある。また『集注』に引く程頤の注に「曾子の学は、誠篤なるのみ。聖門の学者は、聡明才弁、多からずと為さず。而して卒に其の道を伝うるは、乃ち質魯の人のみ。故に学は誠実を以て貴しと為すなり」(曾子之學、誠篤而已。聖門學者、聰明才辨、不爲不多。而卒傳其道、乃質魯之人爾。故學以誠實爲貴也)とある。また『集注』に引く尹焞の注に「曾子の才は魯。故に其の学ぶや確。能く深く道にいたる所以なり」(曾子之才魯。故其學也確。所以能深造乎道也)とある。
  • 師(子張) … 『史記』仲尼弟子列伝に「顓孫せんそんは陳の人。あざなは子張。孔子よりわかきこと十八歳」(顓孫師陳人。字子張。少孔子四十八歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顓孫師は陳人ちんひと、字は子張。孔子より少きこと四十八歳。人とり容貌資質有り。寬沖にして博く接し、従容として自ら務むるも、居りて仁義の行いを立つるを務めず。孔子の門人、之を友とするも敬せず」(顓孫師陳人、字子張。少孔子四十八歳。為人有容貌資質。寬沖博接、從容自務、居不務立於仁義之行。孔子門人、友之而弗敬)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 師也辟 … 『集解』に引く馬融の注に「子張の才はひとに過ぐるも、失は邪僻じゃへきにして過ちをかざるに在るなり」(子張才過人、失在邪僻文過也)とある。邪僻は、よこしまで公平でないこと。また『義疏』に「師は、子張なり。子張は好んで其の過ちをかざる。故に云う、僻なり、と。王弼云う、僻は、過差を飾るなり、と」(師、子張也。子張好文其過。故云、僻也。王弼云、僻、飾過差也)とある。また『注疏』に「子張の才は人に過ぎ、失は邪辟にして過ちをかざるに在るなり」(子張才過人、失在邪辟文過也)とある。また『集注』に「辟は便辟なり。容止に習いて、誠実少なきを謂うなり」(辟、便辟也。謂習於容止、少誠實也)とある。便辟は、上辺だけ立派で、心が正しくないこと。容止は、立ち居振る舞い。
  • 師也辟 … 『集解』では「師僻也」に作る。『義疏』では「師也僻」に作る。
  • 由(子路) … 『孔子家語』七十二弟子解に「仲由は卞人べんひと、字は子路。いつの字は季路。孔子よりわかきこと九歳。勇力ゆうりき才芸有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、にして変通に達せず。衛に仕えて大夫と為る。蒯聵かいがいと其の子ちょうと国を争うに遇う。子路遂に輒の難に死す。孔子之を痛む。曰く、吾、由有りてより、悪言耳に入らず、と」(仲由卞人、字子路。一字季路。少孔子九歳。有勇力才藝。以政事著名。爲人果烈而剛直。性鄙而不達於變通。仕衞爲大夫。遇蒯聵與其子輒爭國。子路遂死輒難。孔子痛之。曰、自吾有由、而惡言不入於耳)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「仲由、字は子路、べんの人なり。孔子よりもわかきこと九歳。子路性いやしく、勇力を好み、志こうちょくにして、雄鶏を冠し、とんび、孔子を陵暴す。孔子、礼を設け、ようやく子路をいざなう。子路、後に儒服してし、門人に因りて弟子たるを請う」(仲由字子路、卞人也。少孔子九歳。子路性鄙、好勇力、志伉直、冠雄鷄、佩豭豚、陵暴孔子。孔子設禮、稍誘子路。子路後儒服委質、因門人請爲弟子)とある。伉直は、心が強くて素直なこと。豭豚は、オスの豚の皮を剣の飾りにしたもの。委質は、はじめて仕官すること。ここでは孔子に弟子入りすること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 由也喭 … 『集解』に引く鄭玄の注に「子路の行い、喭(はんげん)に失す」(子路之行、失於喭)とある。喭は、礼を失すること。容を失うこと。粗野なこと。剛猛なこと。畔喭に同じ。また『義疏』に「由は、子路なり。子路の性は剛にして、喭に失するなり。王弼云う、喭は、剛猛なり、と」(由、子路也。子路性剛、失喭也。王弼云、喭、剛猛也)とある。また『注疏』に「子路の行いは、畔喭はんげんに失するなり」(子路之行、失於畔喭也)とある。また『集注』に「喭は、粗俗なり。伝を喭と称するは、俗論を謂うなり」(喭、粗俗也。傳稱喭者、謂俗論也)とある。
  • 由也喭 … 『集解』では「由喭也」に作る。
  • 『集注』に引く楊時の注に「四者は性のかたより、之をげて自ら励むことを知らしむるなり」(四者性之偏、語之使知自勵也)とある。
  • 『集注』に引く呉棫の注に「此の章のはじめ、子曰の二字を脱す」(此章之首、脱子曰二字)とある。
  • 『集注』に「或ひと疑う、下章の子曰は、当に此の章の首めに在りて、通して一章と為すべし、と」(或疑、下章子曰、當在此章之首、而通爲一章)とある。
  • 宮崎市定は「(子曰く)高柴は馬鹿正直、曾參は血のめぐりが鈍い。顓孫せんそんは見栄ぼう、仲由はきめが荒いぞ」と訳している(『論語の新研究』274頁)。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「此れ備うることを賢者にもとむるの意なり。学者夫子の言を以て四子を少なりとす可からざるなり。……凡そ聡明なる者は、見る所快なりと雖も、いたる所は則ち浅し。……曾子魯鈍、初め其の入り難きを苦しみて、而して敢えて易き心有らず。故に其のいたること反って深し」(此責備賢者之意。學者不可以夫子之言少四子也。……凡聰明者、所見雖快、所造則淺。……曾子魯鈍、初苦其難入、而不敢有易心。故其造反深矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「師也辟、……則ち子張は敖を好むの失有るなり。由也喭、……言うこころは子路性行剛強にして、常に喭して礼容を失すとなり。今本を畔に作る。……大氐たいてい此の章は、賜也達・由也果・求也芸と殊なり。かしここれを外に称す。故に其の善を揚ぐ。ここは諸を内に称す。故に其の失を言いて、以て自ら之を知らしめ、或いは朋友をして之を伝えしむるのみ。程子曰く、曾子卒に其の道を伝う、と。此れ何の拠る所ぞ」(師也辟、……則子張有好敖之失也。由也喭、……言子路性行剛強、常喭失於禮容也。今本作畔。……大氐此章、與賜也達由也果求也藝者殊焉。彼稱諸外。故揚其善。此稱諸内。故言其失、以使自知之、或使朋友傳之耳。程子曰、曾子卒傳其道。此何所據)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十