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先進第十一 2 子曰從我於陳蔡者章

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子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也。德行顏淵閔子騫冉伯牛仲弓。言語宰我子貢。政事冉有季路。文學子游子夏。
いわく、われちんさいしたがいしものは、みなもんおよばざるなり。徳行とっこうには顔淵がんえんびんけんぜんはくぎゅう仲弓ちゅうきゅう言語げんごにはさいこう政事せいじには冉有ぜんゆう季路きろ文学ぶんがくにはゆう子夏しか
現代語訳
  • 先生 ――「陳・蔡(サイ)でわしと苦労した者は、みんな手もとにいなくなった。」人がらでは、顔淵・閔(ビン)子騫(ケン)・冉(ゼン)伯牛・仲弓。弁舌では、宰我・子貢。政治では、冉有・季路。文章では、子游・子夏がいた。(がえり善雄『論語新訳』)
  • ちんさい方面に同行して共になんした門人たちも、あるいは死亡し、あるいはでてつかえ、あるいは帰国して、今はだれも門下におらぬ。さびしいことかな。」と孔子様が晩年に歎息たんそくされた。その人々は、徳行とっこうがすぐれた者としては顔淵がんえんびんけんぜんはくぎゅう仲弓ちゅうきゅう、言語にまさった者としてはさいこう、政治で聞えた者としては冉有ぜんゆう季路きろ子路しろ)、文学に長じた者としてはゆう子夏しかであった。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「私についてちんさいを旅した門人たちは、今はもう一人も門下にはいない」
    先師に従って陳・蔡におもむいた門人の中で、徳行にすぐれたのが顔淵・びんけん・冉伯牛・仲弓、言論に秀でたのが宰我・子貢、政治的才能できこえたのが冉有・季路、文学に長じたのが子游・子夏であった。(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • この章は「四科十哲」という言葉の出典となった章として有名である。「四科」は、徳行・言語・政事・文学の四つのグループを指し、「十哲」は、孔子の高弟十人を指す。
  • 陳・蔡 … 当時南方にあった小国の名。今の河南省淮陽県と上蔡県のあたり。孔子六十四歳のとき、一行が食糧を絶たれ、最大の危難に遭った場所である。
  • 皆不及門也 … 今では誰も孔子の門下にいない。
  • 徳行 … 徳の高い行い。道徳にかなった正しい行い。
  • 顔淵 … 前521~前490頃。孔子の第一の弟子、顔回。姓は顔、名は回。あざなえんであるので顔淵とも呼ばれた。の人。徳行第一といわれた。孔子より三十歳年少。早世し孔子を大いに嘆かせた。孔門十哲のひとり。ウィキペディア【顔回】参照。
  • 閔子騫 … 前536~前487。姓はびん。名は損。あざなは子騫。孔門十哲のひとり。孔子より十五歳年少。魯の人。徳行にすぐれ、また孝行者でもあった。ウィキペディア【閔子騫】参照。
  • 冉伯牛 … 前544~?。姓はぜん。名は耕。あざなは伯牛。孔門十哲のひとり。魯の人。徳行にすぐれていた。冉牛とも。ウィキペディア【冉伯牛】参照。
  • 仲弓 … 前522~?。姓はぜん、名は雍、あざなは仲弓。魯の人。孔子より二十九歳若いという。徳行にすぐれていた。孔門十哲のひとり。ウィキペディア【仲弓】参照。
  • 言語 … 弁舌が巧みなこと。雄弁。
  • 宰我 … 前522~前458(一説に前489)。姓は宰、名は予、あざなは子我。孔門十哲のひとり。魯の人。「言語には宰我・子貢」と評され、弁舌にすぐれていた。後に斉のりんの大夫となった。ウィキペディア【宰我】参照。
  • 子貢 … 前520~前446。姓は端木たんぼく、名は。子貢はあざな。衛の人。孔子より三十一歳年少の門人。孔門十哲のひとり。弁舌・外交に優れていた。また、商才もあり、莫大な財産を残した。ウィキペディア【子貢】参照。
  • 政事 … 政治的才能がある。
  • 冉有 … 前522~?。孔門十哲のひとり。姓は冉、名は求。あざなは子有。政治的才能があり、季氏の宰(家老)となった。孔子より二十九歳年少。冉求、冉子とも。ウィキペディア【冉有】参照。
  • 季路 … 前542~前480。姓はちゅう、名はゆうあざなは子路、または季路。魯のべんの人。孔門十哲のひとり。孔子より九歳年下。門人中最年長者。政治的才能があり、また正義感が強く武勇にも優れていた。ちなみに「季」は兄弟の一番末っ子。兄弟を年齢の上の者から順に、伯(孟)・仲・叔・季で表す。ウィキペディア【子路】参照。
  • 文学 … 文章・学問・学芸。
  • 子游 … 前506~前443?。姓はげん、名はえん、子游はあざな。呉の人。孔門十哲のひとり。文章・学問に優れていた。ウィキペディア【子游】参照。
  • 子夏 … 前507?~前420?。姓はぼく、名は商、あざなは子夏。衛の人。孔子より四十四歳年少。孔門十哲のひとり。文章・学問に優れていた。武城の町の宰(長官)となった。ウィキペディア【子夏】参照。
補説
  • 『注疏』では「子曰、從我於陳蔡者、皆不及門也」を本章とし、「此の章は孔子弟子の所を失うをあわれむ」(此章孔子閔弟子之失所)とある。また「德行顏淵閔子騫冉伯牛仲弓。言語宰我子貢。政事冉有季路。文學子游子夏」を次章とし、「此の章は前章に弟子の所を失いて、仕進に及ばざるを言うに因り、遂に弟子の中の、才徳の尤も高くして仕進す可きの人を挙ぐ」(此章因前章言弟子失所、不及仕進、遂舉弟子之中、才德尤高可仕進之人)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 従我於陳蔡者、皆不及門也 … 『集解』に引く鄭玄の注に「言うこころは弟子の我に従いて陳・蔡にくるしむ者は、皆仕進の門に及ばずして其の所を失うなり」(言弟子之從我而厄於陳蔡者、皆不及仕進之門而失其所也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「孔子は時世の乱離を言う。唯だ我が道のみ行われざるに非ず。只だ我が門徒のみ我に従うを経るにして、陳・蔡に在る者も、亦た時を失う。復た仕進の門に及ばざるなり。張憑曰く、道の行われざるは、命なり。唯だ聖人は時を安んじて処り従う、故に通塞を期せず。然るに我に陳・蔡に従う者は、何ぞ能く窮達を以て心と為さざらんや。故に天地将に閉じて、君子の道消するに感ありて、二三子の開泰の門に及ばざることを恨むなり、と」(孔子言時世亂離。非唯我道不行。只我門徒經從我、在陳蔡者、亦失于時。不復及仕進門也。張憑曰、道之不行、命也。唯聖人安時而處從、故不期於通塞。然從我於陳蔡者、何能不以窮逹爲心耶。故感於天地將閉、君子道消、而恨二三子不及開泰之門也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「言うこころは弟子の我に従いて陳・蔡にくるしむ者は、皆仕進の門に及ばずして、其の所を失うなり」(言弟子從我而厄於陳蔡者、皆不及仕進之門、而失其所也)とある。また『集注』に「孔子嘗て陳・蔡の間にくるしむ。弟子の之に従う者多し。此の時皆門に在らず。故に孔子之を思う。蓋し其の患難の中に相従うを忘れざるなり」(孔子嘗厄於陳蔡之間。弟子多從之者。此時皆不在門。故孔子思之。蓋不忘其相從於患難之中也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 皆不及門也 … 『義疏』では「皆不及門者也」に作る。
  • 徳行顔淵閔子騫冉伯牛仲弓 … 『義疏』に「此の章の初めに子曰く無きは、是れ記者の書する所なり。並びに孔子の印可に従う。而して録、論の中に在るなり。孔子の門徒三千、而るに唯だ此れ以下十人有るを名づけて四科と為す。四科とは、徳行なり、言語なり、政事なり、文学なり。徳行は人生の本たり。故に第一と為して以て初めに冠するなり。而して顔・閔及び二冉其の名に合す。王弼云う、此の四科の者、各〻其の才の長ずるを挙ぐるなり。顔淵は徳行の俊、尤も之を兼ぬ、と。范寧云う、徳行は百行の美なるを謂うなり。四子倶に徳行の目在りと雖も、而れども顔子其の冠たり、と」(此章初無子曰者、是記者所書。竝從孔子印可。而錄在論中也。孔子門徒三千、而唯有此以下十人名爲四科。四科者、德行也、言語也、政事也、文學也。德行爲人生之本。故爲第一以冠初也。而顏閔及二冉合其名矣。王弼云、此四科者各舉其才長也。顏淵德行之俊尤兼之矣。范寧云、德行謂百行之美也。四子倶雖在德行之目、而顏子爲其冠也)とある。また『注疏』に「言うこころは若し徳行を任用すれば、則ち顔淵・閔子騫・冉伯牛・仲弓の四人有り」(言若任用德行、則有顏淵閔子騫冉伯牛仲弓四人)とある。
  • 顔回(顔淵) … 『史記』仲尼弟子列伝に「顔回は、魯の人なり。あざなは子淵。孔子よりもわかきこと三十歳」(顏回者、魯人也。字子淵。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「顔回は魯人、字は子淵。孔子より少きこと三十歳。年二十九にして髪白く、三十一にして早く死す。孔子曰く、吾に回有りてより、門人日〻益〻親しむ、と。回、徳行を以て名を著す。孔子其の仁なるを称う」(顏回魯人、字子淵。少孔子三十歳。年二十九而髮白、三十一早死。孔子曰、自吾有回、門人日益親。回以德行著名。孔子稱其仁焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。
  • 閔子騫 … 『孔子家語』七十二弟子解に「閔損びんそんひとあざなは子騫。孔子よりわかきこと十五歳。徳行を以て名を著す。孔子其の孝なるをたたう」(閔損魯人、字子騫。少孔子十五歳。以德行著名。孔子稱其孝焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「閔損、字は子騫。孔子より少きこと十五歳。孔子曰く、孝なるかな閔子騫。人、其の父母昆弟こんていの言をかんせず、と。大夫に仕えず、くんの禄をまず。如し我をふたたびする者有らば、必ずぶんほとりに在らん、と」(閔損字子騫。少孔子十五歳。孔子曰、孝哉閔子騫。人不閒於其父母昆弟之言。不仕大夫、不食汙君之祿。如有復我者、必在汶上矣)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 冉伯牛 … 『孔子家語』七十二弟子解に「冉耕はひと、字は伯牛。徳行を以て名を著す。悪疾有り。孔子曰く、命なるかな、と」(冉耕魯人、字伯牛。以德行著名。有惡疾。孔子曰、命也夫)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「冉耕、字は伯牛。孔子、以て徳行有りと為す。伯牛、悪疾有り。孔子往きて之を問う。まどより其の手を執りて曰く、命なるかな、斯の人にして斯のやまい有るや、命なるかな、と」(冉耕字伯牛。孔子以爲有德行。伯牛有惡疾。孔子往問之。自牖執其手曰、命也夫、斯人也而有斯疾、命也夫)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 仲弓 … 『孔子家語』七十二弟子解に「冉雍は字は仲弓。伯牛の宗族なり。不肖の父より生まれ、徳行を以て名を著す」(冉雍字仲弓。伯牛之宗族。生於不肖之父、以德行著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記索隠』に引く『孔子家語』に「孔子よりわかきこと二十九歳」(少孔子二十九歳)とある。ウィキソース「史記索隱 (四庫全書本)/卷18」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「冉雍、字は仲弓。仲弓、政を問う。孔子曰く、門を出づるは大賓を見るが如くし、民を使うは大祭をくるが如くす。邦に在りても怨み無く、家に在りても怨み無し、と。孔子、仲弓を以て徳行有りと為す。曰く、雍や南面せしむ可し、と。仲弓の父は賤人なり。孔子曰く、ぎゅうの子も、あかくして且つ角あらば、用いる勿からんと欲すと雖も、山川其れこれてんや、と」(冉雍字仲弓。仲弓問政。孔子曰、出門如見大賓、使民如承大祭。在邦無怨、在家無怨。孔子以仲弓爲有德行。曰、雍也可使南面。仲弓父賤人。孔子曰、犂牛之子、騂且角、雖欲勿用、山川其舍諸)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 言語宰我子貢 … 『義疏』に「第二科なり。宰我及び端木の二人、其の目に合するなり。范寧云う、言語は賓主相対するの辞を謂うなり、と」(第二科也。宰我及端木二人合其目也。范寧云、言語謂賓主相對之辭也)とある。また『注疏』に「若し其の言語弁説を用い、以て行人と為し、四方にかしめば、則ち宰我・子貢の二人有り」(若用其言語辨説、以爲行人、使適四方、則有宰我子貢二人)とある。
  • 宰我 … 『孔子家語』七十二弟子解に「宰予は、あざなは子我、ひと口才こうさい有りて名を著す」(宰予、字子我、魯人。有口才著名)とある。口才は、弁舌の才能に優れていること。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「宰予、字は子我。利口べんなり」(宰予字子我。利口辯辭)とある。弁辞は、弁舌に長けていること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 子貢 … 『史記』仲尼弟子列伝に「端木賜は、衛人えいひとあざなは子貢、孔子よりわかきこと三十一歳。子貢、利口巧辞なり。孔子常に其の弁をしりぞく」(端木賜、衞人、字子貢、少孔子三十一歳。子貢利口巧辭。孔子常黜其辯)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『孔子家語』七十二弟子解に「端木賜は、あざなは子貢、衛人。口才こうさい有りて名を著す」(端木賜、字子貢、衞人。有口才著名)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。
  • 政事冉有季路 … 『義疏』に「第三科なり。冉・仲の二人、其の目に合するなり。范寧云う、政事は治国の政を謂うなり、と」(第三科也。冉仲二人合其目也。范寧云、政事謂治國之政也)とある。また『注疏』に「若し政事を治理し、決断して疑わざれば、則ち冉有・季路の二人有り」(若治理政事、決斷不疑、則有冉有季路二人)とある。
  • 冉有 … 『孔子家語』七十二弟子解に「冉求は字は子有。仲弓の宗族なり。孔子よりわかきこと二十九歳。才芸有り。政事を以て名を著す。仕えて季氏の宰と為る。進めば則ち其の官職をおさめ、退けば則ち教えを聖師に受く。性たること多く謙退す。故に子曰く、求や退、故に之を進ましむ、と」(冉求字子有。仲弓之宗族。少孔子二十九歳。有才藝。以政事著名。仕爲季氏宰。進則理其官職、退則受教聖師。爲性多謙退。故子曰、求也退、故進之)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「冉求、字は子有。孔子よりわかきこと二十九歳。季氏の宰と為る」(冉求字子有。少孔子二十九歳。爲季氏宰)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 季路 … 『孔子家語』七十二弟子解に「仲由は卞人べんひと、字は子路。いつの字は季路。孔子よりわかきこと九歳。勇力ゆうりき才芸有り。政事を以て名を著す。人と為り果烈にして剛直。性、にして変通に達せず。衛に仕えて大夫と為る。蒯聵かいがいと其の子ちょうと国を争うに遇う。子路遂に輒の難に死す。孔子之を痛む。曰く、吾、由有りてより、悪言耳に入らず、と」(仲由卞人、字子路。一字季路。少孔子九歳。有勇力才藝。以政事著名。爲人果烈而剛直。性鄙而不達於變通。仕衞爲大夫。遇蒯聵與其子輒爭國。子路遂死輒難。孔子痛之。曰、自吾有由、而惡言不入於耳)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「仲由、字は子路、べんの人なり。孔子よりもわかきこと九歳。子路性いやしく、勇力を好み、志こうちょくにして、雄鶏を冠し、とんび、孔子を陵暴す。孔子、礼を設け、ようやく子路をいざなう。子路、後に儒服してし、門人に因りて弟子たるを請う」(仲由字子路、卞人也。少孔子九歳。子路性鄙、好勇力、志伉直、冠雄鷄、佩豭豚、陵暴孔子。孔子設禮、稍誘子路。子路後儒服委質、因門人請爲弟子)とある。伉直は、心が強くて素直なこと。豭豚は、オスの豚の皮を剣の飾りにしたもの。委質は、はじめて仕官すること。ここでは孔子に弟子入りすること。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 文学子游子夏 … 『義疏』に「第四科なり。言及び卜商の二人、其の目に合するなり。范寧云う、文学は先王の典文を善くするを謂うなり、と。王弼云う、弟子の才、徒に倶に十のみならず。蓋し其の美なる者を挙げて以て業分の名を表し、其の余は則ち各〻長ずる所を以てし、四科の品に従うなり、と。侃四科の次第を案ずるに、徳行を立ててはじめと為すことは、乃ち解す可きことたり。而して言語を次と為すことは、言語は、君子の枢機にして、徳行の急たり、故に徳行に次ぐなり。而して政事は是れ人事、則ち言語に比すればゆるしと為す、故に言語に次ぐなり。文学は是れ古えの文を博く学ぶを指す、故に三事に比すればゆたかなりと為す、故に最も後なり」(第四科也。言及卜商二人合其目也。范寧云、文學謂善先王典文。王弼云、弟子才不徒倶十。蓋舉其美者以表業分名、其餘則各以所長從四科之品也。侃案四科次第、立德行爲首、乃爲可解。而言語爲次者、言語、君子樞機、爲德行之急、故次德行也。而政事是人事、則比言語爲緩、故次言語也。文學指是博學古文、故比三事爲泰、故最後也)とある。また『注疏』に「若し文章博学ならば、則ち子游・子夏の二人有るなり。然れども夫子の門徒は三千、達者は七十有二なるに、而も此の四科に唯だ十人を挙ぐるのみなるは、但だ其のぎょうなる者を言うのみ。或いは時に陳に在りて之を言い、唯だ従者を挙ぐるのみにて、其の従わざる者は、才徳有りと雖も、亦た言いて及ばざりしならん」(若文章博學、則有子游子夏二人也。然夫子門徒三千、達者七十有二、而此四科唯舉十人者、但言其翹楚者耳。或時在陳言之、唯舉從者、其不從者、雖有才德、亦言不及也)とある。翹楚は、多くの中で特にすぐれている人。
  • 子游 … 『孔子家語』七十二弟子解に「言偃げんえんひとあざなは子游。孔子よりわかきこと三十五歳。時に礼を習い、文学を以て名を著す。仕えて武城の宰と為る。嘗て孔子に従いて衛にく。将軍の子蘭と相善し。之をして学を夫子に受けしむ」(言偃魯人、字子游。少孔子三十五歳。時習於禮、以文學著名。仕爲武城宰。嘗從孔子適衞。與將軍之子蘭相善。使之受學於夫子)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「言偃はひとあざなは子游。孔子よりわかきこと四十五歳」(言偃呉人。字子游。少孔子四十五歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 子夏 … 『孔子家語』七十二弟子解に「卜商は衛人えいひとあざなは子夏。孔子よりわかきこと四十四歳。詩を習い、能く其の義に通ず。文学を以て名を著す。人と為り性弘からず。好みて精微を論ず。じん以て之にくわうる無し。嘗て衛に返り、史志を読る者を見る。云う、晋の師、秦を伐つ。さん河を渡る、と。子夏曰く、非なり。がいのみ。史志を読む者、これを晋の史に問う。果たして己亥と曰う。是に於いて衛、子夏を以て聖と為す。孔子しゅっして後、西河のほとりに教う。魏の文侯、之に師事して国政をはかる」(卜商衞人、字子夏。少孔子四十四歳。習於詩、能通其義。以文學著名。爲人性不弘。好論精微。時人無以尚之。嘗返衞見讀史志者。云、晉師伐秦。三豕渡河。子夏曰、非也。己亥耳。讀史志者、問諸晉史。果曰己亥。於是衞以子夏爲聖。孔子卒後、教於西河之上。魏文侯師事之、而諮國政焉)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「卜商あざなは子夏。孔子よりわかきこと四十四歳」(卜商字子夏。少孔子四十四歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 『集注』に「弟子は孔子の言に因りて、此の十人を記して、并せて其の長ずる所をなづけて、分かちて四科と為す。孔子の人を教うること、各〻其の材に因ること、此に於いて見る可し」(弟子因孔子之言、記此十人、而幷目其所長、分爲四科。孔子教人、各因其材、於此可見)とある。
  • 『集注』に引く程顥の注に「四科は乃ち夫子に陳・蔡に従う者のみ。門人の賢者、固より此に止まらず。曾子は道を伝うれどもあずからず。故に十哲は世俗の論なるを知るなり」(四科乃從夫子於陳蔡者爾。門人之賢者、固不止此。曾子傳道而不與焉。故知十哲世俗論也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、徳行は聖学の全体にして、言語・政事・文学の三者を兼ぬ、豈に一科と作して之を言う可けんや。而して三者亦た徳行に本づかざれば、則ち言語聴く可しと雖も、徒らに弁ずるのみ。政事観る可しと雖も、徒に法あるのみ。文学取る可しと雖も、徒に博きのみ。以て学と為すに足らざるなり。孟子称す、冉牛、閔子、顔淵は、則ち体を具えて微なりと、而して三子皆徳行の科に在れば、則ち聖人の学という者知る可し。後世の学を論ずるに、或いは此に異なり、知らず所謂学は果たして何事たるかを」(論曰、德行者聖學之全體、兼言語、政事、文學三者、豈可作一科言之哉。而三者亦不本於德行、則言語雖可聽、徒辨而已矣。政事雖可觀、徒法而已矣。文學雖可取、徒博而已矣。不足以爲學也。孟子稱、冉牛、閔子、顏淵、則具體而微、而三子皆在德行科、則聖人之學者可知矣。後世之論學、或異乎此、不知所謂學者果何事哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「門に及ばず、鄭玄の解、仕進の門に及ばずと。殊に通ぜずと為す。蓋し仕は乃ち後字の誤り。十哲後進の門に及ばざるを謂うなり。朱子の解は、孔子の門に在らずと。及字穏やかならず。従う可からず。蓋し上章の後進は必ず指す所有り。臧文仲が輩にして、時人称して君子と為すが如きなり。孔子は取らず。又た言う、我に陳・蔡に従いし者は皆其の門に及ばずと。然れども其の人皆用う可し。故に論語を作る者、顔淵以下を記して以て之をじつす。門に及ばずとは、後進の君子皆既に没して、顔淵が輩生まるること時を同じうせず、其の門にいたりて以て業を受くるに及ばざるを言うなり。唐十哲を以てじゅうすること、誠に考を失す。……おのが意を以て其の徳をついずるは、亦た仏氏の菩薩・羅漢に是れならうのみ。孔子坐し、門人するに、皆よわいを以てす。千載のもとたれか能く之をえん」(不及門、鄭玄解、不及仕進之門。殊爲不通。蓋仕乃後字之誤。謂十哲不及後進之門也。朱子解、不在孔子之門。及字不穩。不可從矣。蓋上章後進必有所指。如臧文仲輩、而時人稱爲君子也。孔子不取。又言從我於陳蔡者皆不及其門。然其人皆可用。故作論語者記顏淵以下以實之。不及門者、言後進君子皆既沒、而顏淵輩生不同時、不及詣其門以受業也。唐以十哲從祀、誠失考。……以己意秩其德、亦佛氏菩薩羅漢是傚已。孔子坐、門人侍、皆以齒。千載之下、孰能易之)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十