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子罕第九 14 子曰吾自衛反魯章

219(09-14)
子曰、吾自衞反魯、然後樂正、雅頌各得其所。
いわく、われえいよりかえりて、しかのちがくただしく、しょう各〻おのおのところたり。
現代語訳
  • 先生 ――「わしが衛から魯に帰り、そのあと音楽も立ちなおり、雅楽も納まるところに納まった。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「わしが衛から魯に帰って以来骨折ったかいあって、乱れていた音楽がせいされ、朝廷のがくなる、宗廟の舞楽なるしょう、その他それぞれ正しい音楽が正しい場合に演奏されるようになった。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「音楽が正しくなり、しょうもそれぞれその所を得て誤用されないようになったのは、私が衛から魯に帰って来たあとのことだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 自衛反魯 … 衛から魯に帰る。哀公十一年(前484)の冬、孔子六十八歳のときであったという。
  • 楽正 … 乱れていた音楽の調子を正す。音階を規則どおりに直す。
  • 雅 … 宮廷で用いられる音楽。
  • 頌 … 宗廟の祭に用いられる音楽。
  • 得其所 … 然るべき所に落ち着いた。
補説
  • 『注疏』に「此の章は孔子廃楽を正すの事を言うを記するなり」(此章記孔子言正廢樂之事也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 吾自衛反魯、然後楽正、雅頌各得其所 … 『集解』に引く鄭玄の注に「魯にかえるは、魯の哀公十一年の冬なり。是の時、道衰え楽すたる。孔子来たり還りて、乃ち之を正す。故に雅・頌各〻其の所を得たりと曰うなり」(反魯、魯哀公十一年冬也。是時、道衰樂廢。孔子來還、乃正之。故曰雅頌各得其所也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「孔子魯を去りて後、而して魯の礼楽崩壊せり。孔子魯の哀公十一年を以て、衛より魯に還る。而して詩・書を刪り、礼楽を定む。故に楽音正しきを得たり。楽音正しきを得るは、雅頌の詩各〻其の本づく所を得る所以なり。雅頌は是れ詩義の美なる者なり。美なる者既に正しければ、則ち余の者正し。亦た知る可きなり」(孔子去魯後、而魯禮樂崩壞。孔子以魯哀公十一年、從衞還魯。而刪詩書、定禮樂。故樂音得正。樂音得正、所以雅頌之詩各得其本所也。雅頌是詩義之美者。美者旣正、則餘者正。亦可知也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「孔子は定十四年を以て魯を去り、応じて諸国に聘す。魯の哀公十一年、衛より魯に反る。是の時道は衰え楽はすたる。孔子来還して、乃ち之を正す。故に雅・頌は各〻其の所を得るなり」(孔子以定十四年去魯、應聘諸國。魯哀公十一年、自衞反魯。是時道衰樂廢。孔子來還、乃正之。故雅頌各得其所也)とある。また『集注』に「魯の哀公十一年の冬、孔子衛より魯に反る。是の時周の礼魯に在り。然れども詩楽も亦た頗る残欠し次を失う。孔子四方に周流し、参互考訂し、以て其の説を知る。晩に道終に行われざるを知る。故に帰りて之を正す」(魯哀公十一年冬、孔子自衞反魯。是時周禮在魯。然詩樂亦頗殘缺失次。孔子周流四方、參互考訂、以知其說。晚知道終不行。故歸而正之)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 反魯 … 『義疏』では「反於魯」に作る。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「夫れ雅頌の叙、孔子に非ずと雖も、或いは亦た之を能くす可し。然れども孔子に在りては則ち伝わる、他人に在りては則ちしからず。……蓋し司馬遷が輩、著述を以て聖人を見て、未だ夫子の道、猶お日月の天に繫がるがごとくして、さんじゅつの功にあずからざることを知らず。……其の一たび教えを開きし後は、附託人に有り、伝伝相続けり。猶お泉源のさくの功を経て、流派混混として昼夜をかず、四海に放たるがごときなり。豈に著述の功を待たんやと」(夫雅頌之叙、雖非孔子、或亦可能之。然在孔子則傳、在他人則否。……蓋司馬遷輩、以著述見聖人、而未知夫子之道、猶日月之繫天、而不關刪述之功。……其一開教之後、附託有人、傳傳相續。猶泉源之經疏鑿之功、流派混混不舍晝夜、放於四海也。豈待著述之功哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「此れ雅・頌と言えば、則ち南・ひん其の中に在り。故に此の章は楽を主として之を言う。蓋し是れより先き雅頌の声或いは混ず、孔子之を正し、而うして後各〻其の所を得るなり。……殊に知らず孔子の前に、六経りくけいは書無し、書あるは唯だ書のみ。故に之を書と謂う。詩は諷詠に存し、礼・楽は皆人に在り。……孔子四方に周流し、い求むることつぶさに至り、然る後に門弟子其の書を伝う。……後儒は察せず、妄りにおもえらく孔子の前にも亦た六経有り、孔子はさんじゅつするのみと。又た孔子よりして後、諸子紛然として著作し、皆孔子にならう、而うして其の書は牛にあせむねつ。是れにりて仁斎が輩は著作の者を軽視す。孔子の世を識らず、だ今の世を以て之を視るが故なり。且つ其の人は独り論語を尊んで六経を軽んず、是れ独り刪述を以て孔子を称することを欲せざるに坐す、きょうなりと謂う可きのみ」(此言雅頌、則南豳在其中矣。故此章主樂言之。蓋先是雅頌之聲或混、孔子正之、而後各得其所也。……殊不知孔子之前、六經無書、書唯書耳。故謂之書。詩存諷咏、禮樂皆在人。……孔子周流四方、訪求具至、然後門弟子傳其書。……後儒不察、妄謂孔子之前亦有六經、孔子刪述而已。又孔子而後、諸子紛然著作、皆傚孔子、而其書汗牛充棟。藉是仁齋輩輕視著作者。不識孔子之世、徒以今世視之故也。且其人獨尊論語而輕六經、坐是不欲獨以刪述稱孔子、可謂強已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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