>   論語   >   泰伯第八   >   19

泰伯第八 19 子曰大哉堯之爲君也章

203(08-19)
子曰、大哉、堯之爲君也。巍巍乎、唯天爲大。唯堯則之。蕩蕩乎、民無能名焉。巍巍乎、其有成功也。煥乎、其有文章。
いわく、だいなるかな、ぎょうきみたるや。巍巍乎ぎぎことして、てんだいなりとし、ぎょうのみこれのっとる。蕩蕩とうとうとして、たみづくることし。巍巍乎ぎぎことして、成功せいこうり。かんとして、ぶんしょうり。
現代語訳
  • 先生 ――「えらいなあ、堯(ギョウ)さまの王さまぶりは。山のごとく、ただ天を上にし、堯さまがそれにあやかる。海のごとく、人はもうことばがない。そびえ立つ、その建設のあと。かがやかしい、その文化のすがた。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「さてさて大いなることかな、堯の天子様りは。実にりっぱなことじゃ。およそ唯一ゆいいつの大きなものは天だが、堯のみが天とかたをならべる。その広大こうだいへんなること、何と名のつけようもない。ただ見るところは高くそびえるその事業と、光りかがやくその礼楽れいがく制度とのみ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「堯帝の君徳はなんと大きく、なんと荘厳なことであろう。世に真に偉大なものは天のみであるが、ひとり堯帝は天とその偉大さをともにしている。その徳の広大無辺さはなんと形容してよいかわからない。人はただその功業の荘厳さと文物制度の燦然さんぜんたるとに眼を見はるのみである」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 大哉 … 偉大だなあ。
  • 堯 … 古代の伝説上の聖天子。名は放勲。舜を後継者として皇帝の位を譲った。ウィキペディア【】参照。
  • 為君 … 君主としての態度。
  • 巍巍乎 … 堯の徳の高大なさま。「乎」は、語調をととのえるための助字。
  • 唯天為大 … ただ天こそが偉大なものである。「唯」は、「ただそれのみは」「ただそれこそは」の意。
  • 唯堯則之 … ただ堯こそは、天の偉大さを手本とされた。「則」は、「手本とする」の意。
  • 蕩蕩乎 … 広々として果てしないさま。
  • 民無能名焉 … 人民が形容しようとしても形容できないほどである。
  • 成功 … 成し遂げた事業。
  • 煥乎 … 光り輝くさま。
  • 文章 … 制度や文化。
補説
  • 『注疏』に「此の章は堯を歎美するなり」(此章歎美堯也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 大哉、堯之為君也 … 『義疏』に「此れ堯をむるなり。禅譲の始めと為す。故に孔子其の君たるの法大なるを歎ずるなり」(此美堯也。爲禪讓之始。故孔子歎其爲君之法大也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 巍巍乎、唯天為大。唯堯則之 … 『集解』に引く孔安国の注に「則は、法なり。堯能く天にのっとりて化を行うをむるなり」(則、法也。美堯能法天而行化也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「則は、法なり。言うこころは唯だ天徳巍巍として既に高く既に大なり。而して唯だ堯のみ能くのっとりて之を行うなり。たもつ所以は、則ち天の徳なる者なり。夫れ天道私無く、唯だ徳のみ是れあずかる。而して堯天位をたもちて舜にゆずる。亦た唯だ徳にみ是れ与る。功遂げ身退くは、則ち天に法りて化を行うなり」(則、法也。言唯天德巍巍既高既大。而唯堯能法而行之也。所以有、則天之德者。夫天道無私、唯德是與。而堯有天位禪舜。亦唯德是與。功遂身退、則法天而行化也)とある。また『注疏』に「言うこころは大なるかな、堯の君たるや。聡明にして文思、其の徳の高大なること巍巍然たり。形有るの中、唯だ天のみ大と為す。万物のりて始め、四時行わる。唯だ堯のみ能く此の天道にのっとりて、其の化を行う」(言大矣哉、堯之為君也。聦明文思、其德高大巍巍然。有形之中、唯天為大。萬物資始、四時行焉。唯堯能法此天道、而行其化焉)とある。また『集注』に「唯は、猶お独のごときなり。則は、猶お準のごときなり」(唯、猶獨也。則、猶準也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 蕩蕩乎、民無能名焉 … 『集解』に引く包咸の注に「蕩蕩は、広遠の称なり。言うこころは其の徳をくこと広遠にして、民能くこれを識り名づくること無し」(蕩蕩、廣遠之稱也。言其布德廣遠、民無能識名焉)とある。また『義疏』に「蕩蕩は、広遠の称なり。言うこころは堯徳をくこと広遠にして、功用て遍くめぐる。故に民能く識りて之を名づくる者無きなり」(蕩蕩、廣遠之稱也。言堯布德廣遠、功用遍匝。故民無能識而名之者也)とある。また『注疏』に「蕩蕩は、広遠の称なり。言うこころは其の徳を布くこと広遠なれば、民能く其の名を識る者無きなり」(蕩蕩、廣遠之稱。言其布德廣遠、民無能識其名者焉)とある。また『集注』に「蕩蕩は、広遠の称なり。言うこころは物の高大、天に過ぐる者有ること莫くして、独だ堯の徳のみ、能く之となぞらう。故に其の徳の広遠なることも、亦た天の言語を以て形容す可からざるが如きなり」(蕩蕩、廣遠之稱也。言物之高大、莫有過於天者、而獨堯之德、能與之準。故其德之廣遠、亦如天之不可以言語形容也)とある。
  • 巍巍乎、其有成功也 … 『集解』の何晏の注に「功成り化はさかんにして、高大なること巍巍なり」(功成化隆、高大巍巍也)とある。また『注疏』に「言うこころは其の民を治めて功は成りて化は隆く、高大にして巍巍然たり」(言其治民功成化隆、高大巍巍然)とある。また『集注』に「成功は、事業なり」(成功、事業也)とある。
  • 煥乎、其有文章 … 『集解』の何晏の注に「煥は、明なり。其の文を立て制を垂るること復た著明なり」(煥、明也。其立文垂制復著明也)とある。また『注疏』に「煥は、明なり。言うこころは其の文を立て制を垂るること又た著明なり」(煥、明也。言其立文垂制又著明也)とある。また『集注』に「煥は、光明の貌。文章は、礼楽法度なり。堯の徳は、名づく可からず。其の見る可き者は此れのみ」(煥、光明之貌。文章、禮樂法度也。堯之德、不可名。其可見者此爾)とある。
  • 『集注』に引く尹焞の注に「天道の大は、為すこと無くして成る。唯だ堯のみ之に則り、以て天下を治む。故に民得て名づくること無し。名づく可き所の者は、其の功業文章の、巍然として煥然たるのみ」(天道之大、無爲而成。唯堯則之、以治天下。故民無得而名焉。所可名者、其功業文章、巍然煥然而已)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「言うこころは民堯の徳化に涵育して、其の徳化の然る所以を知らず。猶お人天地の中に在りて、天地の大いなる所以を知らざるがごときなり。故に曰く、民能く名づくること無し、と。唯だ其の見る所の者は、功業文章の、巍然煥然たるのみ。達巷党たっこうとうの人、徒らに孔子の大なるを見て、其のしょうする所、わずかに博く学びて名を成す所無きに在り。是を以て益〻孔子の徳の大なるを知る。是れ堯・孔の大聖たる所以なり」(言民涵育於堯之德化、而不知其德化之所以然。猶人在於天地之中、而不知天地之所以爲大也。故曰、民無能名焉。唯其所見者、功業文章、巍然煥然而已。達巷黨人、徒見孔子之大、而其所稱謂、纔在於博學而無所成名。是以益知孔子之德之大矣。是堯孔之所以爲大聖也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「巍巍乎たりは堯を称するなり、天を称するに非ざるなり。……巍巍はと山を以て之を言う、豈に以て天を賛す可けんや。……理学者流は渾然たる天理を以て説を立て、以為おもえらく聖人の胸中に別に天有りと、故に天にのっとると言うことをむのみ。其のきわめは仏氏が三界唯だ一心に帰す。豈に古聖人の天を敬し天を畏るるの意ならんか。……文なる者は天の道なり、礼楽を謂うなり。堯は天下万世を安んずる所以を思うに、礼楽に非ざれば不可なり。礼楽は其の人をって而うして後に興る。堯は生まれながらにして知ると雖も、独り作ること能わず、故に舜を挙げてここに譲る。是れ所謂文思なり。……帝は皆堯を謂うなり。舜・禹は皆堯の道を成せり。……文章とは礼楽なり。いやしくも礼楽に非ざれば、則ち功を成すことくの若く其れ巍巍たること能わざるなり、是れ堯のなり。且つ礼楽の功は、然ることを期せずして然り、亦た民の能く名づくること無き所以なり。……蓋しかいびゃくより以来、堯に至って而うして後に道立つ。ふく・神農・黄帝の聖たる所以や、其の為せる所は利用厚生の事に過ぎざるのみ。……三代の聖人、皆堯のに外せず。是れ又た堯の独り其の大を称する所以か」(巍巍乎稱堯也、非稱天也。……巍巍本以山言之、豈可以贊天邪。……理學者流以渾然天理立説、以爲聖人胸中別有天、故諱言法天耳。其究歸於佛氏三界唯一心。豈古聖人敬天畏天之意乎。……文者天之道也、謂禮樂也。堯思所以安天下萬世、非禮樂不可也。禮樂俟其人而後興。堯雖生知、不能獨作、故舉舜而讓焉。是所謂文思也。……帝皆謂堯也。舜禹皆成堯之道。……文章者禮樂也。苟非禮樂、則成功不能若是其巍巍也、是堯之思也。且禮樂之功、不期然而然、亦民之所以無能名也。……蓋自開闢以來、至於堯而後道立矣。伏羲神農黄帝之所以爲聖也、其所爲不過於利用厚生之事已。……三代聖人、皆不外堯之思。是又堯之所以獨稱其大邪)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十