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泰伯第八 18 子曰巍巍乎章

202(08-18)
子曰、巍巍乎、舜禹之有天下也、而不與焉。
いわく、巍巍乎ぎぎこたり、しゅんてんたもつや、しこうしてあずからず。
現代語訳
  • 先生 ――「大したものだ。舜(シュン)帝や禹(ウ)王が世をおさめるのは、かかわりがないみたいだ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「高大なことかな、しゅんが天下をりっぱに治められたことは。そしてご自身は関係のないようなお顔をしてござる。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「何という荘厳さだろう、しゅん帝と王が天下を治められたすがたは。しかも両者ともに政治にはなんのかかわりもないかのようにしていられたのだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 巍巍乎 … 高大なさま。高く大きい様子。「乎」は、語調を整えるための助字。
  • 舜 … 古代の伝説上の聖天子。姓はよう。虞に国を建てたので虞舜、または有虞氏と呼ばれる。堯から譲位を受け皇帝となった。ウィキペディア【】参照。
  • 禹 … 古代の伝説上の聖天子。舜から譲位を受け皇帝となった。夏王朝の開祖。大洪水を治め、治水に功績があったといわれる。ウィキペディア【】参照。
  • 不与 … 政治に自分では直接関与しない。
補説
  • 『注疏』に「此の章は舜・禹をむるなり」(此章美舜禹也)とある。なお、画像では「此章美禹也」に作るが、十三経注疏本に従い改めた。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 巍巍乎、舜禹之有天下也、而不与焉 … 『集解』の何晏の註に「舜・禹をむるなり。己の天下をあずかり求めずして之を得るなり。巍巍とは、高大の称なり」(美舜禹。己不與求天下而得之也。巍巍者、高大之稱也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れ舜・禹を美むるなり。舜・禹も亦た古えの聖天子なり。巍巍は、高大の称なり。言うこころは舜・禹は時に逢い世に遇う。高大にして美むる可きなり。舜は堯の禅を受けて天下をたもち、禹は舜の禅を受けて天下を有つ。此の二聖は時を得て天下を有つ。並びに身のあらかじめ求むる所に非ずして、君自ら之にゆずるなり。一に云う、孔子は己のあらかじめ舜・禹の時にあらわれざるを歎くなり。若し其の時に逢わば、則ち己道を宣しくし用に当たらん、と。故に王弼曰く、時に逢い世に遇うて、舜・禹の如くなること莫きなり、と。江熙曰く、舜・禹は禅を受けて天下の極をたもつ。故に楽其の善を尽くす。時にあずかり並ばざることを歎ず。蓋し道昔にかなって在り、而して理当今に屈することを感ずるなり、と」(此美舜禹也。舜禹亦古聖天子也。巍巍、高大之稱也。言舜禹逢時遇世。高大可美也。舜受堯禪而有天下、禹受舜禪而有天下。此二聖得時有天下。竝非身所預求、而君自禪之也。一云、孔子歎己不預見舜禹之時也。若逢其時、則己宣道當用也。故王弼曰、逢時遇世、莫如舜禹也。江熙曰、舜禹受禪有天下之極。故樂盡其善。歎不與竝時。蓋感道契在昔、而理屈當今也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「巍巍は、高大の称なり。言うこころは舜・禹の天下をたもつや、自ら功徳を以て禅を受け、求めて之を得るにあずからず。其の徳の巍巍然として高大なる所以なり」(巍巍、高大之稱。言舜禹之有天下、自以功德受禪、不與求而得之。所以其德巍巍然高大也)とある。また『集注』に「巍巍は、高大の貌。あずからずとは、猶お相関せずと言うがごとし。其の位を以て楽しみと為さざるを言うなり」(巍巍、高大之貌。不與、猶言不相關。言其不以位爲樂也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 而不与焉 … 伊藤仁斎は「あたえざるがごとし」と読んでいる。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「而は、如と古え通用す。舜・禹皆禅を受けて天下をたもつ、然れども其の徳最盛にして、与えらるると雖も猶お与えられざるがごときなり、故に堯・舜を称せずして、特に舜・禹と言う。旧解に以為おもえらく、不与は、猶お相関わらずと曰うがごとし。此れ蓋し老荘天下をべっするの意に出でて、聖人の旨に非ず。故に之を改む」(而、如古通用。舜禹皆受禪而有天下、然其德最盛、雖見與猶不與也、故不稱堯舜、而特言舜禹。舊解以爲、不與、猶曰不相關。此蓋出于老莊蔑棄天下之意、而非聖人之旨。故改之)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「朱子曰く、あずからずとは、猶お相関せずと言うがごとし。言うこころは其の位を以て楽しみとせざるなり、と。……何ぞだ舜・禹のみならんや。且つ心を以てして聖人を論ずるは、孔門の意に非ず。……不与と云う者は、己の天下をたもつことを忘るるを謂うなり。不相関と云う者は、己は自ずから己、天下は自ずから天下、相関渉せざるを謂うなり。仁斎先生は而をばごとしと訓じ、与をば上声に読みて、曰くあたえらると雖も、猶お与えざるがごとし、と。是れ孟子に本づけり。然れども殊に文義を成さず。蓋し舜・禹の天下をたもつにあずからざる所以の者は、堯を以ての故なり。……故に己の天下をたもてることを忘れ、而うして猶お堯の天下なりとおもえり」(朱子曰、不與、猶言不相關。言其不以位爲樂也。……何特舜禹哉。且以心而論聖人、非孔門之意焉。……不與云者、謂忘己之有天下也。不相關云者、謂己自己、天下自天下、不相關渉也。仁齋先生而訓如、與讀上聲、曰雖見與、猶不與也。是本孟子。然殊不成文義。蓋舜禹之所以不與有天下者、以堯故也。……故忘己之有天下、而猶謂堯之天下焉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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