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述而第七 32 子曰文莫吾猶人也章

179(07-32)
子曰、文莫吾猶人也。躬行君子、則吾未之有得。
いわく、ぶんわれひとのごときことからんや。くんきゅうこうすることは、すなわわれいまこれることらず。
現代語訳
  • 先生 ――「学問は、わしも人なみであろうが…。りっぱな人のおこないとなると、まだ身についていない。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「本を読むことはわしも人なみにできるつもりだが、君子の行いを実践じっせんきゅうこうすることは、わしにはまだなかなかでき得ない。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「典籍の研究は、私も人なみにできると思う。しかし、君子の行いを実践することは、まだなかなかだ」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 文 … 学問。なお、劉宝楠『論語正義』では「文莫」を「忞慔」の仮借とする。また、荻生徂徠は『升庵外集』の「燕・斉は勉強を謂いて文莫と為す」(燕齊謂勉強爲文莫)という説を引用し、「文莫は、勉強という燕・斉の言葉である」と言っている。
  • 猶人 … 人並みである。
  • 猶 … 「なお~のごとし」と読み、「ちょうど~のようだ」と訳す。再読文字。
  • 躬行 … 自分で実際に実行すること。実践すること。
  • 吾未之有得 … まだまだできるとはいえない。
補説
  • 『注疏』に「此の章は夫子の徳をへりくだるを記するなり」(此章記夫子之謙德也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 文莫吾猶人也 … 『集解』の何晏の注に「莫は、無なり。文無とは、猶お俗に文不と言うがごときなり。文は吾猶お人のごときことなからんとは、凡そ文皆人に勝たざるを言うなり」(莫、無也。文無者、猶俗言文不也。文不吾猶人者、言凡文皆不勝於人也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「孔子は謙なり。文は、文章なり。莫は、無なり。無は、猶お不のごときなり。孔子言う、我の文章は人に勝たず、と。故に曰く、吾猶お人のごときなり、と」(孔子謙也。文、文章也。莫、無也。無、猶不也。孔子言、我之文章不勝於人。故曰、吾猶人也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「莫は、無なり。文無とは、猶お俗に文不と言うがごときなり。言うこころは凡そ文は皆人に勝らず、但だ猶お常人の如きなり」(莫、無也。文無者、猶俗言文不也。言凡文皆不勝於人、但猶如常人也)とある。また『集注』に「莫は、疑辞。猶お人のごとしは、人に過ぐること能わざれども、尚お以て人に及ぶ可きを言う」(莫、疑辭。猶人、言不能過人、而尚可以及人)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 躬行君子、則吾未之有得 … 『集解』に引く孔安国の注に「みずから君子たらんとするも、己未だ之を得ること能わざるなり」(躬爲君子、己未能得之也)とある。また『義疏』に「又た謙するなり。躬は、身なり。言うこころは我が文既に人に勝たず。故に身自ら君子の行を行う者は、則ち吾も亦た未だ得ざるなり」(又謙也。躬、身也。言我文既不勝人。故身自行君子之行者、則吾亦未得也)とある。また『注疏』に「躬は、身なり。言うこころは身君子と為るは、己未だ能わざるなり」(躬、身也。言身爲君子、己未能也)とある。また『集注』に「未だ之れ得ること有らざれば、則ち全く未だ得ること有らず。皆自ら謙するの辞にして、以て言行の難易緩急を見るに足る。人の其の実を勉むるを欲するなり」(未之有得、則全未有得。皆自謙之辭、而足以見言行之難易緩急。欲人之勉其實也)とある。
  • 則吾未之有得 … 『義疏』では「則吾未之有得也」に作る。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「文は聖人と雖も人と同じからざる無し。故に遜せず。能く君子を躬行すれば、ここに以て聖に入る可し。故に居らず。猶お君子の道とする者三、我能くすること無しと言うがごとし」(文雖聖人無不與人同。故不遜。能躬行君子、斯可以入聖。故不居。猶言君子道者三、我無能焉)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「言うこころは文は吾豈に人に及ぶこと能わざらんや。身君子を行うは、則ち吾未だ能わざるなり。蓋し行いの難きを言うなり」(言文吾豈不能及人哉。身行君子、則吾未能也。蓋言行之難也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「升庵外集に曰く、晋書らんちょうが論語駁に曰く、燕・斉に勉強を謂いて文莫とす、と。ちんが雑識に云う、方言に侔莫ぼうばくは、強なり。凡そ労して勉むる、努力せよと云うが若き者、之を侔莫と謂う、と。故に文莫は黽勉びんべんなり。……按ずるに文莫せば吾猶お人のごとしとは、孔子の時の諺なり。凡そ事黽勉すれば、則ち皆人に及ぶ可きを言うなり。孔子之を誦して曰く、世人が言う所此くの如し、然りと雖も、君子の道を躬行するに至っては、則ち吾未だ其の人を得ず、と。世に君子少なきことを嘆ずるなり。大氐たいてい前儒は文を視ること甚だ軽し、聖人の本意に非ざるなり」(升庵外集曰、晉書欒肇論語駁曰、燕齊謂勉強爲文莫。陳騤雜識云、方言侔莫、強也。凡勞而勉、若云努力者、謂之侔莫。故文莫黽勉也。……按文莫吾猶人也者、孔子時諺也。言凡事黽勉、則可皆及於人也。孔子誦之而曰、世人所言如此、雖然、至於躬行君子之道、則吾未得其人也。嘆世少君子也。大氐前儒視文甚輕、非聖人本意也)とある。黽勉は、勉め励むこと。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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