>   論語   >   述而第七   >   30

述而第七 30 陳司敗問章

177(07-30)
陳司敗問、昭公知禮乎。孔子曰、知禮。孔子退。揖巫馬期而進之曰、吾聞、君子不黨。君子亦黨乎。君取於呉。爲同姓、謂之呉孟子。君而知禮、孰不知禮。巫馬期以告。子曰、丘也幸。苟有過、人必知之。
ちんはいう、昭公しょうこうれいれるか。こういわく、れいれり。こう退しりぞく。巫馬期ふばきゆうしてこれすすめていわく、われく、くんとうせず、と。くんとうするか。きみめとる。同姓どうせいなるがために、これもうう。きみにしてれいれば、たれれいらざらん、と。巫馬期ふばきもっぐ。いわく、きゅうさいわいなり。いやしくもあやまれば、ひとかならこれる、と。
現代語訳
  • 陳の国の法務大臣がきいた、「(お国の先代の)昭殿さまは礼式をごぞんじでしたか…。」孔先生 ――「心得ていました。」孔先生がさがると、大臣は(先生の弟子の)巫馬期(フバ・キ)にあいさつして招きよせ、 ―― 「人物はヒイキせぬそうだが…。人物でもヒイキしますかね…。奥方は呉の人で、おなじ妃(キ)姓なのに、子(シ)姓のようによんでいた。あれで礼式を知っていたら、だれでも知ってるでしょう。」巫馬期が、そのとおり告げる。先生 ――「わしはしあわせだ。ヘマをやろうものなら、人が気づいてくれる。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • ちんはいなにがしが孔子に、「あなたの主君昭公は礼を知っておられるか」とたずねたところ、孔子が「礼を知っております。」と答えてそのまま引きさがった。そこで司敗が門人巫馬期ふばきしゃくして呼び近づけ、「君子は仲間びいきはせぬものと聞いているが、孔子のような君子もやはり仲間びいきをされるのか。昭公はの女をめとられたが、同姓なのをはばかり、もうと名づけてごまかされたような次第で、昭公が礼を知るならばだれが礼を知らぬ者があろうぞ。しかるに孔子が昭公は礼を知ると言ったのは、仲間びいきではあるまいか。」と言った。巫馬期がそのことを孔子様に申し上げたところ、孔子様がおっしゃるよう、「丘はあわせ者じゃ。ちっとでもあやまちがあると、人様が必ず気がついて教えてくださる。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 陳のはいがたずねた。――
    昭公しょうこうは礼を知っておられましょうか」
    先師がこたえられた。――
    「知っておられます」
    先師はそれだけいって退かれた。そのあと司敗は巫馬期ふばき会釈えしゃくし、彼を自分の身近かに招いていった。――
    「私は、君子というものは仲間ぼめはしないものだと聞いていますが、やはり君子にもそれがありましょうか。と申しますのは、昭公はからきさきを迎えられ、その方がご自分と同姓なために、ごまかしてもうと呼んでおられるのです。もしそれでも昭公が礼を知った方だといえますなら、世の中に誰か礼を知らないものがありましょう」
    巫馬期があとでそのことを先師に告げると、先師はいわれた。――
    「私は幸福だ。少しでも過ちがあると、人は必ずそれに気づいてくれる」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 陳 … 国名。今の河南省淮陽わいよう県を中心とした地にあった小国。ウィキペディア【陳 (春秋)】参照。
  • 司敗 … 陳の官名。司法の長官。陳・楚以外の国ではこうと呼んだ。この人物の姓名は不明。
  • 昭公 … ?~前510。魯の君主。名はちゅう。襄公の庶子。ウィキペディア【昭公 (魯)】参照。
  • 巫馬期 … 前521~?。孔子の門人。姓は巫馬、名は施。あざなは子期、また子旗。魯の人、また陳の人。孔子より三十歳若い。ウィキペディア【巫馬施】(中文)参照。
  • 揖 … 両手を胸の前で組み合わせて、少し上にあげてする挨拶。
  • 党 … 仲間ぼめをする。
  • 君取於呉 … 君子は呉の国から夫人をめとられた。
  • 同姓 … 魯公の家も呉公の家も、姓はどちらも。「同姓娶らず」が古くからの習慣である。
  • 呉孟子 … 魯の昭公の夫人の名で、同姓を隠すためにつけた名。「子」は、姓。「孟」は、長女。
  • 苟 … 「いやしくも」と読み、「もし~だったら」「かりに~」と訳す。順接の仮定条件の意を示す。
補説
  • 『注疏』に「此の章は孔子の国悪を諱むの礼を記するなり」(此章記孔子諱國惡之禮也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 陳司敗問、昭公知礼乎 … 『集解』に引く孔安国の注に「司敗は、官名なり、陳の大夫なり。昭公は、魯の昭公なり」(司敗、官名也、陳大夫也。昭公、魯昭公也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「昭公は魯の君なり。陳の司敗孔子にまみえて、魯の君礼を知りて以てするやいなやを問うなり」(昭公魯君也。陳司敗見孔子、而問魯君知禮以不也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「陳の大夫司寇の官と為り、と魯の昭公に違礼の事有るを聞く、故に孔子に問う、昭公は礼を知れるか、と」(陳大夫爲司寇之官、舊聞魯昭公有違禮之事、故問孔子、昭公知禮乎)とある。また『集注』に「陳、国の名。司敗は、官名、即ち司寇なり。昭公は、魯の君、名はちゅう。威儀の節を習い、当時以て礼を知れると為す。故に司敗以て問いを為す。而して孔子之に答うること此くの如し」(陳、國名。司敗、官名、即司寇也。昭公、魯君、名稠。習於威儀之節、當時以爲知禮。故司敗以爲問。而孔子答之如此)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 孔子曰 … 『義疏』では「孔子對曰」に作る。
  • 孔子曰、知礼 … 『義疏』に「司敗に答えて曰く、昭公は礼を知るなり、と」(答司敗曰、昭公知禮也)とある。また『注疏』に「答えて言う、昭公は礼を知るなり、と」(答言、昭公知禮也)とある。
  • 孔子退 … 『義疏』に「司敗に答え竟えて、退き去る」(答司敗竟、而退去)とある。
  • 揖巫馬期而進之曰 … 『義疏』に「揖とは、古人相まみえて前進せんと欲せば、皆先ず之を揖するなり。巫馬期は孔子の弟子なり。司敗は昭公の礼無きを知る。故に孔子に問う。答えて曰く、礼を知る、と。而るに司敗心に許さざる所あり。故に孔子退きて後、孔子の弟子を揖して之を進め、与に語らんと欲するなり」(揖者、古人欲相見前進、皆先揖之也。巫馬期孔子弟子也。司敗知昭公無禮。故問孔子。答曰、知禮。而司敗心所不許。故孔子退而後、揖孔子弟子進之、欲與語也)とある。また『集注』に「巫馬は、姓。期は、字なり。孔子の弟子、名は施。司敗揖して之を進むるなり」(巫馬、姓。期、字。孔子弟子、名施。司敗揖而進之也)とある。
  • 巫馬期 … 『孔子家語』七十二弟子解に「巫馬施は陳人ちんひと、字は子期。孔子よりわかきこと三十歳」(巫馬施陳人、字子期。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「家語 (四庫全書本)/卷09」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「巫馬施、字は子旗。孔子よりわかきこと三十歳」(巫馬施字子旗。少孔子三十歳)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。
  • 揖巫馬期而進之 … 『義疏』では「揖巫馬期而進也」に作る。『史記』仲尼弟子列伝では「揖巫馬旗」に作る。
  • 吾聞、君子不党。君子亦党乎 … 『義疏』に「相助けて非をかくすを党と曰う。昭公は礼を知らず。而るに孔子は礼を知ると云う。是れ党する所以なり。故に司敗、巫馬期に語りて曰く、吾従い来たりて聞く、君子の人義と比と、私して相阿党する所無し、と。孔子既に是れ君子、而るに今君の悪を匿す。故に云う、君子も亦た党するか、と」(相助匿非曰黨。昭公不知禮。而孔子云知禮。所以是黨也。故司敗語巫馬期曰、吾從來聞、君子之人義與比、無所私相阿黨。孔子既是君子、而今匿君之惡。故云、君子亦黨乎)とある。また『注疏』に「相助けて非を匿すを党と曰う。孔子既に司敗に答えて退去す。司敗復た弟子の巫馬期に揖して之を進め、問いて曰く、我聞く、君子は阿党せず、と。今孔子言う、昭公は礼を知る、と。乃ち是れ君子も亦た党すること有るか、と」(相助匿非曰黨。孔子既答司敗而退去。司敗復揖弟子巫馬期而進之、問曰、我聞、君子不阿黨。今孔子言、昭公知禮。乃是君子亦有黨乎)とある。また『集注』に「相助けて非をかくすを党と曰う」(相助匿非曰黨)とある。
  • 君取於呉 … 『集解』に引く孔安国の注に「巫馬期は、弟子なり。名は施。相助けて非を匿すを党と曰う。魯・呉は倶に姫姓なり。礼に同姓は婚せず、而れども君之を娶る。当に呉姫と称すべきも、諱みて孟子と曰うなり」(巫馬期、弟子也。名施。相助匿非曰黨。魯呉倶姫姓也。禮同姓不婚、而君娶之。當稱呉姫、諱曰孟子也)とある。また『義疏』に「司敗此に昭公礼を知らざるの事を挙ぐ。昭公は是れ周公の後、呉は是れ太伯の後なり。太伯は是れ周公の伯祖なり。昭公は呉と同じく是れ姫姓なり。周の礼、百世婚姻通ぜず。而るに昭公其の呉の女を娶る。故に云う、君、呉に娶るなり、と」(司敗此舉昭公不知禮事。昭公是周公後、呉是太伯後。太伯是周公伯祖。昭公與呉同是姫姓。周禮百世婚姻不通。而昭公娶其呉之女。故云、君娶於呉也)とある。また『集注』に「礼に、同姓を娶らず。而して魯と呉とは皆姫姓。之を呉孟子と謂う者は、之を諱みて宋女の子姓の者の若く然りとせしむなり」(禮、不娶同姓。而魯與呉皆姫姓。謂之呉孟子者、諱之使若宋女子姓者然)とある。
  • 君取 … 『経典釈文』では「君娶」に作り、「と今取に作る」(本今作取)とある。「取」は「娶」の古字。ウィキソース「經典釋文 (四庫全書本)/卷24」参照。
  • 為同姓、謂之呉孟子 … 『義疏』に「礼に婦人を称するに、皆国及び姓を称す。猶お斉姜・秦えいの属の如きなり。魯の呉に娶る、当に謂いて呉姫と為すべし。而るに昭公呉は是れ同姓なるが為に、故に諱みて呉姫と言うを得ずして、呉孟子と謂うなり」(禮稱婦人、皆稱國及姓。猶如齊姜秦贏之屬也。魯之娶呉、當謂爲呉姫。而昭公爲呉是同姓、故諱不得言呉姫、而謂呉孟子也)とある。また『注疏』に「孰は、誰なり。魯・呉は倶に姫姓なり。礼にては同姓は昏せざるに、而も君之をめとる。当に呉姫と称すべきも、是れ同姓なるが為に之を諱む、故に之を呉孟子と謂う」(孰、誰也。魯呉倶姫姓。禮同姓不昏、而君取之。當稱呉姫、爲是同姓諱之、故謂之呉孟子)とある。
  • 君而知礼、孰不知礼 … 『義疏』に「孰は、誰なり。君同姓を娶る、君是れ礼を知れば、則ち誰か悪事を為す者にして謂いて礼を知らずと為さんや」(孰、誰也。君娶同姓、君是知禮、則誰爲惡事者而謂爲不知禮乎)とある。また『注疏』に「若し魯君昭公を以てして礼を知ると為さば、又た誰か礼を知らざらん」(若以魯君昭公而爲知禮、又誰不知禮也)とある。
  • 巫馬期以告 … 『義疏』に「巫馬は司敗の語を得て、還って則ちともに之を述べて、以て孔子に告ぐなり」(巫馬期得司敗之語、還則具述之、以告孔子也)とある。また『注疏』に「巫馬期は司敗の言を以て孔子に告ぐるなり」(巫馬期以司敗之言告孔子也)とある。
  • 子曰、丘也幸。苟有過、人必知之 … 『集解』に引く孔安国の注に「司敗の言を以て告ぐるなり。国の悪を諱むは、礼なり。聖人は智深く道弘く、故に受けて以て過ちと為すなり」(以司敗之言告也。諱國惡、禮也。聖人智深道弘、故受以爲過也)とある。また『義疏』に「孔子は巫馬期の告ぐるを得て、自ら名を称して云う、是れ己幸いにして、受けて以て過ちと為す者なり。故に云う、苟くも過ち有らば、人必ず之を知るなり、と。然る所以の者は、昭公礼を知らず。而るに我司敗に答うるに礼を知る者と云えり。若し司敗をしてそしること無からしめば、則ち千載の後、遂に我が言を承信せん。昭公の行う所、礼を知ると為すを用てすれば、則ち礼乱の事、我より始まる。今、司敗非とせらるるを得て、我受けて以て過ちと為せば、則ち後人あやまたず。故に我幸いと為す所以なり。繆協曰く、諱むときは則ち諱むに非ず、斯れ誠に然り。受けて以て過ちと為すが若きんば、則ち諱む所以の者又た以て明らかなり、亦た諱むに非ざるなり。さきに司敗の問うときは、則ち言をたがえて以て諱むことを為す、今巫馬師徒将に其の義を明らかにせんとす、故に向の言礼にかなうと為すなり、かりそめに礼に合うと曰う、則ち党を為さず。今以て受けて過ちと為さずんば、則ち何の礼か之れ有らんや、と」(孔子得巫馬期之告、而自稱名云、是己幸、受以爲過者也。故云、苟有過、人必知之也。所以然者、昭公不知禮。而我答司敗云知禮者。若使司敗無譏、則千載之後、遂承信我言。用昭公所行爲知禮、則禮亂之事、從我而始。今得司敗見非、而我受以爲過、則後人不謬。故我所以爲幸也。繆協曰、諱則非諱、斯誠然矣。若受以爲過、則所以諱者又以明矣、亦非諱也。向司敗之問、則詭言以爲諱、今巫馬師徒將明其義、故向之言爲合禮也、苟曰合禮、則不爲黨矣。今以不受爲過、則何禮之有乎)とある。また『注疏』に「孔子初めに昭公は礼を知ると言うは、是れ国悪を諱めばなり。国悪を諱むは、礼なり。但だ聖人の道は弘し、故に受けて以て過ちと為し、丘や幸なり。苟くも過ち有れば、人必ず之を知ると言うなり」(孔子初言昭公知禮、是諱國惡也。諱國惡、禮也。但聖人道弘、故受以爲過、言丘也幸。苟有過、人必知之也)とある。また『集注』に「孔子自ら君の悪を諱むと謂う可からず。又た同姓を娶るを以て礼を知ると為す可からず。故に受けて以て過ちと為して辞せず」(孔子不可自謂諱君之惡。又不可以娶同姓爲知禮。故受以爲過而不辭)とある。
  • 『集注』に引く呉棫の注に「魯は蓋し夫子の父母の国。昭公は、魯の先君なり。司敗は又た未だ嘗てあきらかに其の事を言わず。而してにわかに礼を知るを以て問いと為す。其の之にこたうるに宜しく此くの如くなるべきなり。司敗以て党有りと為すに及びて、夫子受けて以て過ちと為す。蓋し夫子の盛徳、可ならざる所無きなり。然れども其の受けて以て過ちと為すも、亦た正に其の過つ所以を言わず。初めより孟子の事を知らざる者の若し。以て万世の法と為す可し」(魯蓋夫子父母之國。昭公、魯之先君也。司敗又未嘗顯言其事。而遽以知禮爲問。其對之宜如此也。及司敗以爲有黨、而夫子受以爲過。蓋夫子之盛德、無所不可也。然其受以爲過也、亦不正言其所以過。初若不知孟子之事者。可以爲萬世之法矣)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、旧註に以て国悪を諱むと為すは非なり。司敗意有りて之を問い、夫子意無くして之に答う。其の礼を知れるを以て答えを為せるは、当たらざるに非ざるなり。司敗再び之を詰まるに及んで、夫子自ら其の過ちたるを知る。……聖人も亦た人のみ。其れ復た何ぞ疑いを容れんや。し木石器物一定して変ぜざるが若きは、則ち死物のみ。要は貴ぶに足らず。故に道を知る者は、過ち無きを貴ばずして、能く改むるを貴ぶ。聖人の道は、広し大なるかな」(論曰、舊註以爲諱國惡非也。司敗有意問之、夫子無意答之。其以知禮爲答、非不當也。及乎司敗再詰之、而夫子自知其為過。……聖人亦人焉耳。其復何容疑。倘若木石器物一定不變焉、則死物耳。要不足貴焉。故知道者、不貴無過、而貴能改焉。聖人之道、廣矣大哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「仁斎先生此の章を論じて曰く、聖人も亦た過ち有り、と。此の言は孟子に本づく。宋儒の所謂いっそんせずの比の若きに非ずと謂う可し。又た曰く、いやしくも過ちに非ざるを以て、自ら以て過ちとせば、是れのみ。ちょくに非ず。豈に聖人の心ならんや。非なり。君の悪を諱むは、礼なり。豈に偽ならんや」(仁齋先生論此章而曰、聖人亦有過。此言本於孟子。可謂非若宋儒所謂一疵不存之比矣。又曰、苟以非過、自以爲過、是偽焉耳。非直也。豈聖人之心乎。非矣。諱君之惡、禮也。豈偽乎哉)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十