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雍也第六 13 子曰孟之反不伐章

132(06-13)
子曰、孟之反不伐。奔而殿。將入門、策其馬曰、非敢後也、馬不進也。
いわく、もうはんほこらず。はしりて殿でんたり。まさもんらんとするや、うまむちうちていわく、えておくれたるにあらず、うますすまざればなり、と。
現代語訳
  • 先生 ――「孟之反はゆかしい人だ。負けいくさのしんがりで、町の門まできてから、馬にムチをあて、 ―― 『しんがりはイヤだが、馬が走らないんだ。』」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「孟之反はこうにほこらぬ人だ。まけいくさのしんがりをみごとにつとめたが、城門に入ろうとするとき馬に一鞭ひとむちあてて、『わざわざしんがりをしたわけではない、馬が疲れて前へ出なかったのだ。』と言った。まことにおくゆかしいことじゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    もうはんは功にほこらない人だ。敗軍の時に一番あとから退却して来たが、まさに城門にはいろうとする時、馬に鞭をあてて、こういったのだ。――自分は好んで殿しんがりやくをつとめたわけではないが、つい馬がいうことをきかなかったので。――」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 孟之反 … 生没年不詳。魯の国の大夫。姓は孟、名はそくはんあざな。ウィキペディア【孟之側】(中文)参照。
  • 不伐 … 自分の功績を誇らない。
  • 奔 … 走って逃げる。退却する。敗走する。
  • 殿 … 「でんたり」または「でんす」と読む。しんがり。軍隊が退却するとき、その最後尾にあって追ってくる敵を防ぐこと。
  • 将 … 再読文字。「まさに~せんとす」と読む。「いまにも~しそうである」と訳す。
  • 策 … 「むちうつ」と読む。むちをあてる。
  • 非敢後也 … わざわざ後れてしんがりをつとめたわけではない。「敢」は「わざわざ」「すすんで」などの意。「後」は「おくるる」と読んでもよい。
補説
  • 『注疏』に「此の章は功は不伐を以て善と為すを言うなり」(此章言功以不伐爲善也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 孟之反不伐 … 『集解』に引く孔安国の注に「魯の大夫、孟之側なり。斉と戦い、軍大敗す。伐らずとは、自ら其の功を伐らざるなり」(魯大夫、孟之側也。與齊戰、軍大敗。不伐者、不自伐其功也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「魯臣なり。伐らずは、功有れども自ら称せざるを謂うなり。此れ伐らざるの源なり。魯の哀公十一年、魯師及び斉師、郊に戦うの事なり。春秋にまみゆるなり。余、鄭注本を見るに、姓は孟、名は之側、字は之反なり」(魯臣也。不伐、謂有功不自稱也。此不伐之源。魯哀公十一年、魯師及齊師戰于郊之事也。見春秋也。余見鄭注本、姓孟、名之側、字之反也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「功を誇るを伐と曰う。孟之反は、魯の大夫の孟之側なり。軍功有れども誇伐せざるなり」(誇功曰伐。孟之反、魯大夫孟之側也。有軍功而不誇伐也)とある。また『集注』に「孟之反は、魯の大夫なり。名は、側。胡氏(胡寅)曰く、反は、即ち荘周称する所の孟子反なる者、是れなり。伐は、功を誇るなり」(孟之反、魯大夫。名、側。胡氏曰、反、即莊周所稱孟子反者是也。伐、誇功也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 奔而殿 … 『集解』に引く馬融の注に「殿しんがりは、軍の後に在る者なり。前なるをけいと曰い、後なるを殿と曰う。孟之反は賢にして勇有り。軍大いにはしるも、猶お殿と為る」(殿、在軍後者也。前曰啓、後曰殿。孟之反賢而有勇。軍大奔、猶爲殿)とある。また『義疏』に「此れ伐らざるの事なり。軍の前を啓と曰い、軍のしりえを殿と曰う。時に魯と斉と戦い、魯の軍大敗し退き奔る。而るに孟之側独り軍後にとどまりて殿を為し、以て捍衛かんえいし奔る者なり。故に曰く、奔りて殿す、と」(此不伐之事也。軍前曰啓、軍後曰殿。于時魯與齊戰、魯軍大敗退奔。而孟之側獨住軍後爲殿、以捍衞奔者。故曰、奔而殿也)とある。捍衛は、敵の攻撃を防ぎ守ること。また『注疏』に「此れ其の不伐の事なり。軍後に在るを殿と曰う」(此其不伐之事也。在軍後曰殿)とある。また『集注』に「奔は、敗走なり。軍後を殿と曰う」(奔、敗走也。軍後曰殿)とある。
  • 将入門、策其馬 … 『義疏』に「門は、魯国の門なり。策は、杖なり。初め敗奔せし時は郊に在り。国門を去ること遠し。孟之側、後に在り。還りて将に国門に至り入らんとするに及んで、孟之側、馬に杖うちて奔る者の前に在らしむなり。然るに六籍に唯だ馬を用いて車に乗る、馬に騎るの文無し、唯だ曲礼に云う、前に車騎有り、と。是れは馬に騎るのみ。今其の馬にむちうつと云う、知らず馬とやん、車に乗るとやん」(門、魯國門也。策、杖也。初敗奔時在郊。去國門遠。孟之側在後。及還將至入國門、而孟之側杖馬令在奔者前也。然六籍唯用馬乘車、無騎馬之文、唯曲禮云、前有車騎。是騎馬耳。今云策其馬、不知爲馬、爲乘車也)とある。また『注疏』に「策は、すいなり」(策、捶也)とある。捶は、むちうつ。また『集注』に「策は、鞭なり」(策、鞭也)とある。
  • 非敢後也。馬不進也 … 『集解』に引く馬融の注に「人迎えて之を功とするも、独り其の名有るを欲せず。故に曰く、我敢えて後に在りて敵をふせぐに非ざるなり。馬進む能わざるなり、と」(人迎功之、不欲獨有其名。故曰、我非敢在後距敵也。馬不能進也)とある。また『義疏』に「其れ既にしりえに在り。而るに国人皆之を迎えて、正に功有りと謂う。己独り其の功を受くるを欲せず。故に将に門に入らんとし、馬にむちうちて云う、我敢えて後に在りて敵を距ぐに非ず。まさに是れ馬行くも進まず。故に後に在るのみ、と。馬に杖うつ所以は、馬の従い来たりて進まざることを示すなり」(其既在後。而國人皆迎之、謂正有功。己不欲獨受其功。故將入門、杖馬而云、我非敢在後距敵。政是馬行不進。故在後耳。所以杖馬、示馬從來不進也)とある。また『注疏』に「魯は斉と戦い、魯師敗れて奔る。孟之反は賢にして勇有り。独り後に在りて殿を為し、人迎えて之を功とするも、独り其の名を有するを欲せず。故に将に国門に入らんとして、乃ち其の馬にむちうちて、奔者に先んじて城に入らんと欲するなり。且つ曰く、我敢えて後に在りて殿を為して以て敵を拒ぐには非ず、馬前進すること能わざるが故なり、と」(魯與齊戰、魯師敗而奔。孟之反賢而有勇。獨在後爲殿、人迎功之、不欲獨有其名。故將入國門、乃捶其馬、欲先奔者入城也。且曰、我非敢在後爲殿以拒敵、馬不能前進故也)とある。また『集注』に「戦敗れて還るに、後を以て功と為す。反奔りて殿す。故に此の言を以て自ら其の功をおおうなり。事、哀公十一年に在り」(戰敗而還、以後爲功。反奔而殿。故以此言自揜其功也。事在哀公十一年)とある。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「人能く人の上たらんと欲する無きの心を操れば、則ち人欲日〻消え、天理日〻明らかなり。而して凡そ以て己をほこり人に誇る可き者は、皆うに足る無し。然れども学を知らざる者、人の上たらんと欲するの心、時として忘るること無し。孟之反の若きは、以て法と為す可し」(人能操無欲上人之心、則人欲日消、天理日明。而凡可以矜己誇人者、皆無足道矣。然不知學者、欲上人之心、無時而忘也。若孟之反、可以爲法矣)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「はしりて殿たるは、人のむる所なり。若し人之を称せば、則ち謙黙言わずして乃ち可なり。之反人と為り、其の功を伐ることを悪む。故に人功を以て己に帰きんことを恐れ、先ず自ら其の実をばくす。益〻其の天性に出づるを見るなり。若し之反をして実に自ら殿と為って、又た自ら其の功をおおわしめば、則ち是れいつわるのみ。直道に非ざるなり。聖人必ず取らず」(奔而殿、人之所美也。若人稱之、則謙默不言乃可矣。之反爲人、惡伐其功。故恐人以功歸於己、先自暴其實。益見其出於天性也。若使之反實自爲殿、而又自揜其功、則是偽焉耳。非直道也。聖人必不取焉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「殊に知らず伐らざる者は美徳なり、故に聖人の称することを。孔子明らかに孟之反伐らずと曰う。伐らずと云うは、功有りて而も伐らざるなり。……仁斎務めて奇を出ださんと欲して、其の一章の中に於いて自ら相矛盾することを知らざるなり」(殊不知不伐者美德、故聖人稱焉。孔子明曰孟之反不伐。不伐云者、有功而不伐也。……仁齋務欲出奇、而不知其於一章之中自相矛盾也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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