>   論語   >   公冶長第五   >   24

公冶長第五 24 子曰巧言令色足恭章

116(05-24)
子曰、巧言令色足恭、左丘明恥之。丘亦恥之。匿怨而友其人、左丘明恥之。丘亦恥之。
いわく、巧言こうげんれいしょくすうきょうなるは、きゅうめいこれず。きゅうこれず。うらみをかくしてひとともとするは、きゅうめいこれず。きゅうこれず。
現代語訳
  • 先生 ――「おせじや、見せかけ、バカていねいは、左丘(サキュウ)明が恥じとした。わたしも恥じる。うらみをかくしてつきあうのは、左丘明が恥じとした。わたしも恥じる。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「巧言こうげんれいしょく丁寧ていねい過ぎることは先輩きゅうめいの恥じたところ、この丘もまたこれを恥じる。心の底にうらみをいだきながら友達顔をするようなうらおもてのあることは、先輩左丘明の恥じたところ、この丘もまたこれを恥じる。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「言葉たくみに、顔色をやわらげて人の機嫌をとり、度をこしてうやうやしく振舞うのを、きゅうめいは恥じていたが、私もそれを恥じる。心に怨みをいだきながら、表面だけいかにも友達らしく振舞うのを、左丘明は恥じていたが、私もそれを恥じる」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 巧言 … 口先だけの巧みな弁舌。
  • 令色 … こびへつらった表情。うわべだけ愛想をよくした顔つき。
  • 足恭 … 「足」は「すう」と発音する。度を過ぎたうやうやしさ。過度の慇懃。足は、過ぎるの意。
  • 左丘明 … 姓は左丘、名が明。人物については不明。孔子の先輩と思われる。『春秋左氏伝』の著者である左丘明とは別人であろう。
  • 匿 … 心の中に深く隠すこと。
  • 丘 … 孔子の名。
補説
  • 『注疏』に「此の章は魯の太史左丘明は聖と恥を同じくするの事を言う」(此章言魯太史左丘明與聖同恥之事)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 巧言 … 『詩経』小雅・雨無正の詩に「巧言流るるが如し、をしてやすきにむ」(巧言如流、俾躬處休)とある。ウィキソース「詩經/雨無正」参照。また小雅・巧言の詩に「巧言はこうの如し、顔の厚きなり」(巧言如簧、顏之厚矣)とある。簧は、吹奏楽器の舌。リード。ウィキソース「詩經/巧言」参照。
  • 令色 … 『詩経』大雅・烝民の詩に「令儀令色あり、小心翼翼たり」(令儀令色、小心翼翼)とある。ウィキソース「詩經/烝民」参照。
  • 巧言令色足恭 … 『集解』に引く孔安国の注に「足恭は、便僻べんぺきの貌なり」(足恭、便僻之貌也)とある。便僻は、こびへつらうこと。便辟に同じ。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「己の恭しき情を用うることまれにして、巧言令色を為し、足恭するの者を謂うなり。繆協曰く、恭とは、物に従うなり。凡そ人の近情、人の己に従うを欲せざること莫し。足恭とは、恭を以て人の意に足すなり。而して礼度に合せず。斯れ皆人の適を適として、曲げて物に媚するなり」(謂己用恭情少、而爲巧言令色、足恭之者也。繆協曰、恭者、從物。凡人近情莫不欲人之從己。足恭者、以恭足於人意。而不合於禮度。斯皆適人之適、而曲媚於物也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「孔以為おもえらく、巧は言語を好くし、令は顔色を善くし、便僻は其の足を以て恭を為す、と。すすしりぞうつむあおぐに足を以て恭を為すを謂うなり。一に曰く、足は、将樹の切。足は、成なり。巧言・令色して以て其の恭を成し、媚を人に取るを謂うなり。……此れ足を読むこと字の如し。便僻は、其の足を便習盤僻はんぺきして、以て恭を為すを謂うなり」(孔以爲、巧好言語、令善顏色、便僻其足以爲恭。謂前却俯仰以足爲恭也。一曰、足、將樹切。足、成也。謂巧言令色以成其恭、取媚於人也。……此讀足如字。便僻、謂便習盤僻其足、以爲恭也)とある。また『集注』に「足は、過なり」(足、過也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 左丘明恥之。丘亦恥之 … 『集解』に引く孔安国の注に「左丘明は、魯の大史なり」(左丘明、魯大史也)とある。なお、「大史」は「大夫」に作るテキストもある。また『義疏』に「左丘明は春秋を仲尼に受くる者なり。其れ既に良直なり。故に凡そ恥ず可きの事有り、而して仲尼皆之に従うを恥と為すなり。巧言・令色・足恭は、是れ恥ず可きの事なり」(左丘明受春秋於仲尼者也。其既良直。故凡有可恥之事、而仲尼皆從之爲恥也。巧言令色足恭、是可恥之事也)とある。良直は、善良で正直であること。また『注疏』に「左丘明は、魯の太史なり。春秋経を仲尼より受くる者なり。此の諸事を恥じて為さざるは、孔子の意に適合す。故に丘も亦た之を恥ずと云う」(左丘明、魯太史。受春秋經於仲尼者也。恥此諸事不爲、適合孔子之意。故云丘亦恥之)とある。また『集注』に引く程頤の注に「左丘明は、古えの聞人ぶんじんなり」(左丘明、古之聞人也)とある。聞人は、名声が世間に知れわたった人。
  • 匿怨而友其人 … 『集解』に引く孔安国の注に「心、内に相怨みて外に親をいつわるなり」(心内相怨而外詐親也)とある。また『義疏』に「匿は、蔵なり。心に怨みを蔵して、外に詐りて相親友する者を謂うなり」(匿、藏也。謂心藏怨、而外詐相親友者也)とある。また『注疏』に「友は、親なり。匿は、隠なり。心内は其の相怨むを隠し、而して外貌は相親友すると詐わるを言うなり」(友、親也。匿、隱也。言心内隱其相怨、而外貌詐相親友也)とある。
  • 左丘明恥之。丘亦恥之 … 『義疏』に「亦た左丘明に従いて恥ずるなり。范寧曰く、怨みを心に蔵し、詐りて形外に親す、と。楊子の法言に曰く、友にして心よりせざるは、面友なり、と。亦た丘明の恥ずる所なり」(亦從左丘明耻也。范寧曰、藏怨於心、詐親於形外。楊子法言曰、友而不心、面友也。亦丘明之所耻)とある。なお、原本では「亦丘明又所耻」に作るが、諸本に従い改めた。また『注疏』に「亦た倶に恥じて為さざるなり」(亦倶恥而不爲也)とある。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「二者の恥ず可きこと、穿せんよりも甚だしきこと有るなり。左丘明之を恥ず、其の養う所知る可し。夫子自ら丘も亦た之を恥ずと言う、蓋し窃かに老彭に比すの意なり。又た以て深く学者を戒め、此を察して心を立つるに直を以てせしむるなり」(二者之可恥、有甚於穿窬也。左丘明恥之、其所養可知矣。夫子自言丘亦恥之、蓋竊比老彭之意。又以深戒學者、使察乎此而立心以直也)とある。穿窬は、壁を破り塀を越えて忍び込み、窃盗を働くこと。「陽貨第十七12」に出る語。
  • 宮崎市定は「子曰く、猫なで聲、ついしょう笑い、揉み手割り腰は、左丘明の恥ずる所であったし、この私も恥とする。敵意を抱きながら親友らしく付合うのは、左丘明の恥ずる所であったし、この私も恥とする」と訳している(『論語の新研究』212頁)。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「左丘明の恥ずる所の若き、実に皆意を用い私を挟みて、直道に由らず、学者に在りて穿せんとうより甚だしき者有り。故に聖人之を戒む」(若左丘明之所恥、實皆用意挾私、不由直道、在學者有甚於穿窬之盜者。故聖人戒之)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「一説に、足はしょうじゅせつ、成すなり。言をくし色をくして、以て其の恭を成し、こびを人に取るを謂うなり、と。朱註は其の音に因って其の義を換えて曰く、すうは過なり、と。然れども二説皆よりどころ無し。……将樹の切は、に用うる所無し、亦たげんとす。だ当に孔説に従い、読んで字の如くすべし、而うして必ずしも深く其の義を求めずして可なり。理学家はみだりにちゅうを以て妙道とし、ややもすれば過不及を以て説を為す。……仁斎先生は乃ち此の章及び人の生まるるや直なりの類を観て、ややもすれば直の字を拈ず。殊に知らず直も亦た一徳、豈に一切をがいす可けんや。……孔安国又た曰く、左丘明は魯の太史なり、と。則ち是れ左伝を作りし者なり、豈に異人有らんや。……後儒遂に曰く、左丘は姓、明は名、と。皆けいの臆説、信ずるに足らず。……世に左伝かりせば、たれか春秋の意を知らん。丘明の功、おおいなるかな。大氐たいてい道学先生は、しんすこぶる多し」(一説、足將樹切、成也。謂巧言令色、以成其恭、取媚於人也。朱註因其音而換其義曰、足過也。然二説皆無據。……將樹切、它無所用、亦爲譌言。祗當從孔説、讀如字、而不必深求其義可也。理學家妄以中爲妙道、動以過不及爲説。……仁齋先生乃觀此章及人之生也直類、動拈直字。殊不知直亦一德、豈可槩一切乎。……孔安國又曰、左丘明魯太史。則是作左傳者、豈有異人。……後儒遂曰、左丘姓、明名。皆無稽臆説、不足信矣。……世微左傳、孰知春秋之意。丘明之功、偉哉。大氐道學先生、妬心頗多)とある。無稽は、根拠がなく、でたらめであること。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十