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公冶長第五 5 子使漆彫開仕章

097(05-05)
子使漆彫開仕。對曰、吾斯之未能信。子説。
しっちょうかいをしてつかえしむ。こたえていわく、われこれいましんずることあたわず。よろこぶ。
現代語訳
  • 漆雕(シツチョウ)開を役人にしようとした。かれの返事 ―― 「それにはまだ自信がないのです。」先生は喜ばれた。(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がしっちょうかいかんをすすめたところ、「私にはまだ自信がござりません。」と答えたので、孔子様がお喜びになった。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がしっちょうかいに仕官をすすめられた。すると、漆雕開はこたえた。――
    「私には、まだ役目を果たすだけの自信がありません」
    先師はそのこたえを心から喜ばれた。(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 漆彫開 … 孔子の弟子。姓は漆彫、名は開、あざなは子開。また子若。蔡の人。また魯の人。孔子より十一歳若い。『書経』に習熟していた。「彫」は「雕」に作るテキストもある。同義。ウィキペディア【漆雕開】参照。なお、本来の名は「啓」であったが、漢の景帝のいみなが「啓」のため、避けて「開」としたという。ウィキペディア【景帝 (漢)】【避諱】参照。
  • 仕 … 役人としてつかえること。仕官。
  • 吾 … 弟子が師に対して「吾」と言っているのは、論語の中でもこの章のみ。
  • 斯 … 「仕」を指す。
  • 之 … 語調を整える。
  • 説 … 「悦」に同じ。
補説
  • 『注疏』に「此の章は弟子の漆雕開の行いを明らかにす」(此章明弟子漆雕開之行)とある。なお、画像では「漆雕開之仕」に作るが、十三經注疏本に従い改めた。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 漆彫開 … 『孔子家語』七十二弟子解に「漆雕開は蔡人さいひと、字は子若。孔子よりわかきこと十一歳。尚書を習う。仕うるを楽しまず。孔子曰く、子のよわい、以て仕う可し。時まさに過ぎんとす、と。子若其の書に報いて曰く、吾これを之れ未だ信ずる能わず、と。孔子これよろこぶ」(漆雕開蔡人、字子若。少孔子十一歳。習尚書。不樂仕。孔子曰、子之齒、可以仕矣。時將過。子若報其書曰、吾斯之未能信。孔子悅焉)とある。ウィキソース「孔子家語/卷九」参照。また『史記』仲尼弟子列伝に「漆彫開、字は子開。孔子、開をして仕えしむ。対えて曰く、吾、これを之れ未だ信ずること能わず、と。孔子よろこぶ」(漆彫開字子開。孔子使開仕。對曰、吾斯之未能信。孔子説)とある。ウィキソース「史記/卷067」参照。また『集解』に引く孔安国の注に「開は弟子なり。漆彫は姓なり。開は名なり」(開弟子也。漆彫姓也。開名也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集注』に「漆雕開は、孔子の弟子、字は子若」(漆雕開、孔子弟子、字子若)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子使漆彫開仕 … 『義疏』に「孔子、此の弟子をして官に出仕せしむるなり」(孔子使此弟子出仕官也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「弟子、姓は漆雕、名は開、孔子之をして仕進せしめんとするなり」(弟子、姓漆雕、名開、孔子使之仕進也)とある。
  • 対曰、吾斯之未能信 … 『集解』に引く孔安国の注に「仕進の道、未だ信ずること能わずとは、未だ習うことを究むる能わざるなり」(仕進之道、未能信者、未能究習也)とある。また『義疏』に「彫答うるなり。師に答うるに吾と称するは、古人皆然るなり。答えて云う、言うこころは己の学業未だ熟せず、未だ習うことを究むる能わざれば、則ち民の信ずる所と為らず、未だ仕うるに堪えざるなり。一に云う、言うこころは時君未だ信ずる能わざれば、則ち仕う可からざるなり、と。故に張憑曰く、夫れ君臣の道信にして而る後に交わる者なり。君、臣を信ぜざれば、則ち以て授任する無し。臣、君を信ぜざれば、則ち以て委質し難し。魯君の誠未だ民にあまねからず。故に曰く、未だ敢えて信ぜざるなり、と」(彫答也。答師稱吾者、古人皆然也。答云、言己學業未熟、未能究習、則不爲民所信、未堪仕也。一云、言時君未能信、則不可仕也。故張憑曰、夫君臣之道信而後交者也。君不信臣、則無以授任。臣不信君、則難以委質。魯君之誠未洽於民。故曰、未敢信也)とある。また『注疏』に「開の意は道を学ぶに志し、仕進を欲せず。故に対えて曰く、吾斯の仕進の道に於いて、未だ信ずること能わず、と。未だ習うを究むること能わざるを言うなり」(開意志於學道、不欲仕進。故對曰、吾於斯仕進之道、未能信。言未能究習也)とある。また『集注』に「斯は、此の理を指して言う。信は、真に其の此くの如きを知りて、毫髪ごうはつの疑い無きを謂うなり」(斯、指此理而言。信、謂眞知其如此、而無毫髮之疑也)とある。
  • 子説 … 『集解』に引く鄭玄の注に「其の道に志すことの深きを喜ぶなり」(喜其志道深也)とある。また『義疏』に「孔子、開の言を聞きて欣悦するなり。范寧曰く、開、其の学未だ治道を習究せざるを知る。此を以て政を為すに、民をして己を信ぜしむる能わず。孔子其の志道の深き、栄禄に汲汲たらざるを悦ぶなり、と」(孔子聞開言而欣悦也。范寧曰、開知其學未習究治道。以此爲政、不能使民信己。孔子悦其志道之深、不汲汲於榮祿也)とある。また『注疏』に「孔子其の栄禄に汲汲とせざるを見、其の道に志すことの深きを知る、故にえつするなり」(孔子見其不汲汲於榮祿、知其志道深、故喜説也)とある。また『集注』に「開自ら言う、未だ此くの如きこと能わず、未だ以て人を治む可からず、と。故に夫子其の篤く志すを説ぶ」(開自言、未能如此、未可以治人。故夫子說其篤志)とある。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「漆雕開已に大意を見る。故に夫子之を説ぶ」(漆雕開已見大意。故夫子說之)とある。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「古人の道を見ること分明なり。故に其の言此くの如し」(古人見道分明。故其言如此)とある。
  • 『集注』に引く謝良佐の注に「開の学は考う可きもの無し。然れども聖人之をして仕えしむれば、必ず其の材以て仕う可し。心術の微に至りては、則ち一毫も自得せざれば、其の未だ信ぜずと為すを害さず。此れ聖人の知る能わざる所にして、開自ら之を知る。其の材は以て仕う可きも、其の器は小成に安んぜず。他日る所、其れ量る可けんや。夫子の之を説ぶ所以なり」(開之學無可考。然聖人使之仕、必其材可以仕矣。至於心術之微、則一毫不自得、不害其爲未信。此聖人所不能知、而開自知之。其材可以仕、而其器不安於小成。他日所就、其可量乎。夫子所以說之也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「学者の仕進に於ける、其の才未だ充たずと雖も、然れども親戚之を責め、朋友之を推せば、則ち未だ必ずしも出で仕えずんばあらず。況んや開の学の如き、聖人之をして仕えしめんとすれば、則ち其の才必ず用いらる可し。而るに猶お未だ之をがえんぜざれば、則ち其の自ら足れりと為さずして、之を求むる所以の者、至って深しと謂う可し」(學者之於仕進、雖其才未充、然親戚責之、朋友推之、則未必不出仕。況如開之學、聖人使之仕、則其才必可用。而猶未肯之、則其不自爲足、而所以求之者、可謂至深矣)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「朱註に、斯れは此の理を指して言う、と。理学家の言なり。孔子の時、豈に之れ有らんや。蓋し吾が学の以て政に従う可き、吾自ら之を信じ、而うして後に以て仕う可し。開は未だ自ら信ぜず、故に云爾しかいう。……聖人の知る所の者は、其の才なり。知ること能わざる所の者は、其の志なり。……後世、気質を変化するの説おこり、而うして聖人の人を官にするの各〻其の才をするの義ほろぶ。故に此の章の旨に於いて、漫然として其の意を会せざるのみ」(朱註、斯指此理而言。理學家之言也。孔子時豈有之乎。蓋吾學之可以從政、吾自信之、而後可以仕。開未自信、故云爾。……聖人之所知者、其才也。所不能知者、其志也。……後世變化氣質之説興、而聖人官人各其才之義泯焉。故於此章之旨、漫然不會其意耳)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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