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八佾第三 25 子謂韶章

065(03-25)
子謂韶、盡美矣、又盡善也。謂武、盡美矣、未盡善也。
しょうう、くせり、またぜんくせり。う、くせり、いまぜんくさざるなり。
現代語訳
  • 先生は「韶(ショウ)の曲」を、「みごとだし、このましいものだ。」といわれた。「武の曲」は、「みごとだが、ちょっとこまる。」といわれた。(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がしゅんの音楽「韶」を評して、「美をつくしまた善を尽せるかな」と言われた。また周の武王の音楽「武」を評して、「美を尽しているがまだ善を尽しておらぬ」と言われた。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師が楽曲しょうを評していわれた。――
    「美の極致であり、また善の極致である」
    さらに楽曲を評していわれた。――
    「美の極致ではあるが、まだ善の極致だとはいえない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 謂 … ここでは、批評するの意。
  • 韶 … 舜が作ったという楽曲。
  • 美 … 外面的な美しさ。芸術的に優れていること。
  • 善 … 内面的な美しさ。道徳的に優れていること。
  • 武 … 周の武王が作ったという楽曲。
  • 未尽善也 … 舜は堯から禅譲によって君主となったが、武王は殷の紂王を武力で滅ぼして帝位についたので、道徳的に問題があるということ。
補説
  • 『注疏』に「此の章は韶・武の楽を論ず」(此章論韶武之樂)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子謂韶、尽美矣、又尽善也 … 『集解』に引く孔安国の注に「韶は、舜の楽なり。聖徳を以て受禅するを謂う。故に善を尽くすと曰うなり」(韶、舜樂也。謂以聖德受禪。故曰盡善也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れ虞周二代の楽の勝れるや否やを詳らかにするなり。韶は、舜の楽名なり。夫れ聖人楽を制するに、人心に随いて名と為す。韶は、紹なり。天下の民は舜の揖譲を楽しみ、堯の徳を紹継す。故に舜天下をたもちて楽を制し韶と名づくるなり。美とは、堪合当時の称なり。善とは、理事不悪の名なり。夫れ理事・不悪も、亦た未だ必ずしも会合当時ならず。会合当時も亦た未だ必ずしも事理・不悪ならず。故に美・善に殊なること有るなり。韶楽は美を尽くし又た善を尽くす所以なり。天下万物、舜堯に継ぐを楽しむ。而して舜民に従いて禅を受く。是れ会合当時の心なり。故に美を尽くせりと曰うなり。揖譲して代わる、事理に於いて悪無し。故に善を尽くせりと曰うなり」(此詳虞周二代樂之勝否也。韶、舜樂名也。夫聖人制樂、隨人心而爲名。韶、紹也。天下之民樂舜揖讓、紹繼堯德。故舜有天下而制樂名韶也。美者、堪合當時之稱也。善者、理事不惡之名也。夫理事不惡、亦未必會合當時。會合當時亦未必事理不惡。故美善有殊也。韶樂所以盡美又盡善。天下萬物樂舜繼堯。而舜從民受禪。是會合當時之心。故曰盡美也。揖讓而代、於事理無惡。故曰盡善也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「韶は、舜の楽の名なり。韶は、紹なり。徳は能く堯をぐ、故に楽を韶と名づく。韶楽其の声及び舞は、其の美を極尽するを言う。揖譲して禅を受け、其の聖徳は又た善を尽くすなり」(韶、舜樂名。韶、紹也。德能紹堯、故樂名韶。言韶樂其聲及舞、極盡其美。揖讓受禪、其聖德又盡善也)とある。また『集注』に「韶は、舜の楽なり。武は、武王の楽なり。美とは、声容の盛んなるなり。善とは、美の実なり」(韶、舜樂。武、武王樂。美者、聲容之盛。善者、美之實也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 又尽善也 … 『義疏』では「又盡善矣也」に作る。
  • 謂武、尽美矣、未尽善也 … 『集解』に引く孔安国の注に「武は、武王の楽なり。征伐を以て天下を取る。故に未だ善を尽くさずと曰うなり」(武、武王樂也。以征伐取天下。故曰未盡善也)とある。また『義疏』に「武は、武王の楽なり。天下の民は武王の干戈を楽しむ。故に楽に武と名づくるなり。天下武を楽しむ。武王民に従いて紂を伐つ。是れ会合当時の心なり。故に美を尽くせり。而れども臣を以て君を伐つ。事理に於いて善ならず。故に云う、未だ善を尽くさざるなり、と」(武、武王樂也。天下之民樂武王干戈。故樂名武也。天下樂武。武王從民而伐紂。是會合當時之心。故盡美也。而以臣伐君。於事理不善。故云、未盡善也)とある。また『注疏』に「武は、周の武王の楽なり。武を以て民心を得、故に楽に名づけて武と曰う。言うこころは武の楽の音曲及び舞容は、則ち美を尽極せり。然れども征伐を以て天下を取るは、揖譲して得るに若かず、故に其の徳は未だ善を尽くさざるなり」(武、周武王樂。以武得民心、故名樂曰武。言武樂音曲及舞容、則盡極美矣。然以征伐取天下、不若揖讓而得、故其德未盡善也)とある。また『集注』に「舜は堯にぎて治を致し、武王は紂を伐ちて民を救うも、其の功は一なり。故に其の楽皆な美を尽くす。然れども舜の徳は、之を性のままにするなり。又た揖遜ゆうそんを以てして天下をたもつ。武王の徳は、之にかえるなり。又た征誅を以てして天下を得。故に其の実同じからざる者有り」(舜紹堯致治、武王伐紂救民、其功一也。故其樂皆盡美。然舜之德、性之也。又以揖遜而有天下。武王之德、反之也。又以征誅而得天下。故其實有不同者)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「成湯、桀を放ち、惟れ徳にずる有り。武王も亦た然り。故に未だ善を尽くさず。堯舜湯武、其のはかるや一なり。征伐は其の欲する所に非ず、遇う所の時然るのみ」(成湯放桀、惟有慙德。武王亦然。故未盡善。堯舜湯武、其揆一也。征伐非其所欲、所遇之時然爾)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「聖人は文を右にして武を左にし、徳を崇びて殺を悪む。故に其の言此くの如し。蓋し其の楽を論じて云うこと然り、舜武の優劣を論ずるに非ざるなり」(聖人右文而左武、崇德而惡殺。故其言如此。蓋論其樂云然、非論舜武之優劣也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「……所謂いわゆる美の実なる者、た何を以てか之を見ん。其の説揖遜ゆうそん放伐を以て之を言えば、則ち楽に関せず、但だ舜・武のこうに就いて之を断ずるなり。……故に美とは其の大いなる者を以て之を言うなり。……故に善とは其の小なる者を以て之を言うなり。聖人の楽を作る、豈に躬自みずから之を作らんや。亦た必ずこうともがらの之が輔を為せること有らん。……武の未だ善を尽くさざるに至っては、則ち有司の伝えを失せしなり。然らずんば、周の工の后夔に及ばざるなり」(……所謂美之實者、將何以見之。其説以揖遜放伐言之、則不關樂、但就舜武行事斷之也。……故美者以其大者言之也。……故善者以其小者言之也。聖人之作樂、豈躬自作之。亦必有后夔之倫爲之輔。……至於武之未盡善、則有司之失傳也。不然、周工之不及后夔也)とある。后夔は、舜に仕えた楽官。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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