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八佾第三 12 祭如在章

052(03-12)
祭如在。祭神如神在。子曰、吾不與祭、如不祭。
まつることいますがごとくす。かみまつるにはかみいますがごとくす。いわく、われまつりにあずからざれば、まつらざるがごとし。
現代語訳
  • (先祖は)居るように祭り、神も居るように祭る。先生 ――「自分で祭らないと、祭った気がせぬ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様が先祖の祭をなさる場合には、あたかもご先祖様がそこにござるごとく、また神を祭られるには、神が目の前に出現されたごときご様子であった。そして常に「自身祭に参列しなくては祭ったような気持がしない。」と言われた。(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師は、祖先を祭る時には、祖先をまのあたりに見るような、また、神を祭る時には、神をまのあたりに見るようなご様子で祭られた。そしていつもいわれた。――
    「私は自分みずから祭を行なわないと、祭ったという気がしない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 祭如在 … 祖先を祭るときは、実際に祖先がそこにおられるように敬虔に祭る。
  • 祭神如神在 … 神を祭るときは、実際に神がそこにおられるように敬虔に祭る。
  • 吾不与祭、如不祭 … 自分が祭りに参列できなかったときは、祭ったような気がしない。
  • 与 … 参加する。参列する。
補説
  • 『注疏』に「此の章は孔子の祭礼を重んずるを言う」(此章言孔子重祭禮)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 祭如在 … 『集解』に引く孔安国の注に「死に事うるに、生に事うるが如くするを言うなり」(言事死、如事生也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此れ以下の二句は、乃ち孔子の言に非ず、亦た前に因りて発するなり。魯祭を為すに、臣は其の君の上に処る。是れいますが如かざる故なり。宜しく在すが如くすべきを明らかにするなり。此れ先ず人鬼を祭るを説くなり。人の子親を奉じ、死に事うること生に事うるが如くす。是れ在すが如し」(此以下二句、乃非孔子之言、亦因前而發也。爲魯祭、臣處其君上。是不如在故。明宜如在也。此先說祭人鬼也。人子奉親、事死如事生。是如在)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「宗廟を祭るには必ず其の敬を致し、其の親の存するが如くするを謂う。死に事うること生に事うるが如くするを言うなり」(謂祭宗廟必致其敬、如其親存。言事死如事生也)とある。また『集注』に引く程頤の注に「祭は、先祖を祭るなり」(祭、祭先祖也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 祭神如神在 … 『集解』に引く孔安国の注に「百神を祭るを謂うなり」(謂祭百神也)とある。また『義疏』に「此れ天地山川の百神を祭るを謂うなり。神測る可からず。而して必ず心に期して之に対し、此に在すが如くするなり。孔、前に是れ人鬼を祭り、後に是れ百神を祭るを知る所以の者なり。凡そ且つ其れ在すと称するは、以て在さざるに対するなり。前に既に直に云う、在すが如くす、と。故に則ち知る是れ人鬼、今の在さざるを以て、昔の在すに対するなり。後既に云う、神を祭るには神在すが如くす、と。再び神を称すれば、則ち知る神の存没すること無きを。之を期すれば則ち在すなり」(此謂祭天地山川百神也。神不可測。而必心期對之、如在此也。孔所以知前是祭人鬼、後是祭百神者。凡且稱其在、以對不在也。前既直云、如在。故則知是人鬼、以今之不在、對於昔之在也。後既云、祭神如神在。再稱於神、則知神無存沒。期之則在也)とある。また『注疏』に「百神を祭るときも亦た神の存在するが如くして敬を致すを謂うなり」(謂祭百神亦如神之存在而致敬也)とある。また『集注』に引く程頤の注に「神を祭るは、外神を祭るなり。先を祭るは孝を主とし、神を祭るは敬を主とす、と。愚おもえらく、此れ門人の孔子の祭祀の誠意を記すなり」(祭神、祭外神也。祭先主於孝、祭神主於敬。愚謂、此門人記孔子祭祀之誠意)とある。
  • 子曰、吾不与祭、如不祭 … 『集解』に引く包咸の注に「孔子或いは出で或いは病みて自らみずから祭らざれば、わる者をして之を為さしむるも、敬を心に致さず。祭らざると同じきなり」(孔子或出或病而不自親祭、使攝者爲之、不致敬於心。與不祭同也)とある。また『義疏』に「既に並びに須らく在すが如くすべし。故に説く者孔子の語を引きて、己の義を成すを証するなり。孔子言う、我或いは疾み或いは行くも、自ら祭るを得ずして、人をして之を摂せしむ。人をして代摂せしむを雖も、而れども我が心に於いて尽くさざれば、是れ祭らざると同じきなり」(既竝須如在。故説者引孔子語、證成己義也。孔子言、我或疾或行、不得自祭、使人攝之。雖使人代攝、而於我心不盡、是與不祭同也)とある。また『注疏』に「孔子言う、我れ若し親しく祭事を行うときは、則ち必ず其の恭敬を致す。我れ或いは出で、或いは病みて自ら親しくは祭らず、人をして己に摂代して之を為さしめ、粛敬を心に致さざるは、祭らざると同じきなり、と」(孔子言、我若親行祭事、則必致其恭敬。我或出、或病而不自親祭、使人攝代己爲之、不致肅敬於心、與不祭同)とある。また『集注』に「又た孔子の言を記して以て之を明らかにす。言うこころはおのれ祭の時に当たり、或いは故有りてあずかるを得ずして、他人をして之を摂せしむれば、則ち其の在すが如くするの誠を致すことを得ず。故に已に祭ると雖も、而れども此の心欠然として未だ嘗て祭らざるが如きなり」(又記孔子之言以明之。言己當祭之時、或有故不得與、而使他人攝之、則不得致其如在之誠。故雖已祭、而此心缺然如未嘗祭也)とある。
  • 『集注』に引く范祖禹の注に「君子の祭るや、七日戒し、三日斉し、必ず祭る所の者を見るは、誠の至りなり。是の故に郊すれば則ち天神いたり、廟すれば則ち人鬼く、皆己に由りて以て之を致すなり。其の誠有れば則ち其の神有り、其の誠無ければ則ち其の神無し。謹まざる可けんや。吾祭に与らざれば、祭らざるが如きは、誠に実たり、礼は虚たればなり」(君子之祭、七日戒、三日齊、必見所祭者、誠之至也。是故郊則天神格、廟則人鬼享、皆由己以致之也。有其誠則有其神、無其誠則無其神。可不謹乎。吾不與祭、如不祭、誠爲實、禮爲虚也)とある。
  • 宮崎市定は「祭如在祭神如神在」の八字を「祭如在祭、神如神在」と四字の二句に区切り、「祭ること祭に在るが如くすれば、神は神在すが如し、とあり。子曰く、吾與らざれば、祭るも祭らざるが如きなり」と訓読し、「古語に、祭りを行うには、心をこめて祭りに臨む氣持でやれば、神も本當にそこに實在するようだ、とある。これについて孔子が一句つけ加えた。自ら祭りに參與しない祭りは祭らないも同じだ」と訳している(『論語の新研究』187~188頁)。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、祭祀の礼は、人道の本なり。是に於いて其の誠を尽くさざれば、則ち人道欠く。其れ復た何をか言わん。夫れ人は祖に本づき、万物は天に本づく。犲獺さいだつの賤しきも、皆本に報ゆるを知る。本に報ゆるの心は、人の至情なり。……豈に其のくと享けざるとを問わん」(論曰、祭祀之禮、人道之本。於是不盡其誠、則人道缺焉。其復何言。夫人本於祖、萬物本於天。犲獺之賤、皆知報本。報本之心、人之至情。……豈問其享與不享)とある。犲獺は、山犬とカワウソ。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「祭ること在すが如しとは、古経の言なり。神を祭ること神在すが如くすとは、経を釈するの言なり。しも孔子の言を引いて以て之を証す。色のままに斯れ挙すの章の如きなり。大氐後儒は深く論語は孔子の語録たることになずめり。殊に知らず一時門人の其の意を以て之を録せしことを。或いは孔子の言行を記し、或いは詩・書の義を記す。故に其の例の同じからざる者くの如きなり。程子曰く、祭は、先祖を祭るなり。神を祭るとは、外神を祭るなり、と。これを孔安国に本づく。然れども祭は豈に必ずしも先祖ならんや。神は豈に必ずしも外神ならんや。知らずして之が解を為すと謂う可きのみ。……又た按ずるに、親在すが如しと曰わずして神在すが如しと曰う。死に事うること生に事うるが如くすとは、其の心を語るなり。礼は則ちしからず。親と雖も亦た之を神とす。妻と雖も亦た之を拝す。以て見る可きのみ。後儒は礼にくらくして此の義を知らず。故に文公は家礼を作り、死に事うること生に事うるが如しの義を主とす。陋なりと謂う可きのみ」(祭如在、古經之言也。祭神如神在、釋經之言也。下引孔子之言以證之。如色斯擧矣章也。大氐後儒深泥論語爲孔子語録。殊不知一時門人以其意録之。或記孔子言行、或記詩書之義。故其例不同者如此也。程子曰、祭、祭先祖也。祭神、祭外神也。本諸孔安國。然祭豈必先祖乎。神豈必外神乎。可謂不知而爲之解已。……又按、不曰如親在而曰如神在。事死如事生、語其心也。禮則否。雖親亦神之。雖妻亦拜之。可以見已。後儒昧乎禮而不知此義。故文公作家禮、主事死如事生之義。可謂陋已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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