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八佾第三 4 林放問禮之本章

044(03-04)
林放問禮之本。子曰、大哉問。禮與其奢寧儉。喪與其易也寧戚。
林放りんぽうれいもとう。いわく、だいなるかないや。れいおごらんよりはむしけんせよ。そうおさめんよりはむしいため。
現代語訳
  • 林放が儀式の精神をきく。先生 ――「だいじな問いじゃな。儀式は、ハデにやるより、ジミがよい。葬式は、念入りよりは、しんみり。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 林放が礼の根本義をおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「これは大した質問かな。冠婚かんこんのごとき吉礼きちれいは、金をかけるよりも倹約過ぎるくらいがよい。葬祭そうさいのごとききょうれいは、行届ゆきとどくよりも哀悼あいとうの気持が大切じゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 林放りんぽうが礼の根本義をたずねた。先師がこたえられた。――
    「大事な質問だ。吉礼は、ぜいたくに金をかけるよりも、つまし過ぎる方がいい。凶礼は手落ちがないことよりも、深い悲しみの情があらわれている方がよい」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 林放 … 魯の人ということ以外は不明。礼に詳しい人らしい。
  • 礼之本 … 礼の本質。
  • 大哉問 … りっぱな質問だね。「問うこと、大なる哉」(問大哉)の倒置した形。
  • 奢 … おごる。贅沢にする。
  • 与其~也寧 … 「その~ならんよりは、むしろ…」と訓読する。「~より…のほうがよい」の意。二者択一の形。この語法は「述而第七35」「子罕第九11」にも見える。
  • 倹 … つつましやか。質素。倹約。「奢」の反対。
  • 喪 … 喪礼。死者に対する礼。
  • 易 … 儀式が整う。形式が整う。宮崎市定は「ととのわんよりは」と訓読し、「世間ていを飾るよりも」と訳している(『論語の新研究』184頁)。
  • 戚 … 悲しみいたむこと。「いたましくせよ」「せきせよ」とも訓読する。
補説
  • 『注疏』に「此の章は礼の本意を明らかにするなり」(此章明禮之本意也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 林放問礼之本 … 『集解』に引く鄭玄の注に「林放は、魯の人なり」(林放、魯人也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「孔子に問いて、礼の本を知らんことを求むるなり」(問孔子、求知禮之本也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「林放は、魯人なり。夫子に、礼の本意は如何にするかを問う」(林放、魯人也。問於夫子、禮之本意如何)とある。また『集注』に「林放は、魯の人。世の礼を為す者の、専ら繁文を事とするを見て、其の本の是れに在らざるを疑うなり。故に以て問いを為す」(林放、魯人。見世之爲禮者、專事繁文、而疑其本之不在是也。故以爲問)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 子曰、大哉問 … 『義疏』に「重ねて林放は能く礼の本を問う、故に其の問いをめて之を大なるかなと称するなり。故に王弼云う、時に人は本を棄て末をあがむ、故に其の能く本の礼意を尋ぬることを大とするなり、と」(重林放能問禮之本、故美其問而稱之大哉也。故王弼云、時人棄本崇末、故大其能尋本禮意也)とある。また『注疏』に「夫子将に礼の本を答えんとし、先ず之を歎美するなり。礼の末節すら、人は尚お知らざるに、林放は能く其の本を問い、其の意は小なるに非ず、故に大なるかな問いやと曰うなり」(夫子將答禮本、先歎美之也。禮之末節、人尚不知、林放能問其本、其意非小、故曰大哉問也)とある。また『集注』に「孔子時まさに末を逐うに、放の独り本に志有るを以て、故に其の問いを大とす。蓋し其の本を得れば、則ち礼の全体、其の中に在らざること無し」(孔子以時方逐末、而放獨有志於本、故大其問。蓋得其本、則禮之全體、無不在其中矣)とある。
  • 礼与其奢寧倹。喪与其易也寧戚 … 『集解』に引く包咸の注に「易は、和易なり。言うこころは礼の本意、奢に失するは、倹なるに如かざるなり。喪は和易に失するは、哀戚なるに如かざるなり」(易、和易也。言禮之本意、失於奢、不如儉也。喪失於和易、不如哀戚也)とある。和易は、簡単に済ませること。また『義疏』に「之を美して既にえ、此れ之に答うるなり。奢は、奢侈なり。倹は、倹約なり。夫れ礼の本意は奢倹の中に在り。中を得ざる者は皆失たり。然れども失たりは同じと雖も、而れども成敗は則ち異なれり。奢は則ち不遜、倹は則ち固陋なり。倶に是れ失を致す。奢は倹に如かず。故に云う、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよ、と。易は、和易なり。戚は、哀礼に過ぐるなり。凡そ喪に五服軽重有るは、各〻宜しく情に当たるべし。所以に是れ本たり。和易及び過哀の若きは、皆是れ失たり。是の一失に会えば、則ち易は過哀に若かず、故に寧ろ戚めと云うなり。或ひと問いて曰く、何ぞ礼の本を以て答えざらん、而して必ず四失を言う、何ぞや、と。答えて云う、其の四失を挙ぐれば、則ち知は即ち其の本を失わざるなり。其の時世は失多し、故に因りて失中の勝を挙げて以て当時を誡むるなり、と」(美之既竟、此答之也。奢、奢侈也。儉、儉約也。夫禮之本意在奢儉之中。不得中者皆爲失也。然爲失雖同、而成敗則異。奢則不遜、儉則固陋。俱是致失。奢不如儉。故云、禮與其奢寧儉也。易、和易也。戚、哀過禮也。凡喪有五服輕重者、各宜當情。所以是本。若和易及過哀、皆是爲失。會是一失、則易不若過哀、故云寧戚也。或問曰、何不答以禮本、而必言四失、何也。答云、舉其四失、則知不失即其本也。其時世多失、故因舉失中之勝以誡當時也)とある。また『注疏』に「此れ夫子の答うる所の礼の本なり。奢は、たいなり。倹は、やくしょうなり。易は、和易なり。戚は、哀戚なり。与は、猶お等のごときなり。奢と倹と、易と戚とは、等しく倶に礼に合わず。但だ礼は奢ることに失するを欲せず、寧ろ倹に失せよ。喪は易きことに失するを欲せず、寧ろ戚に失せよ。言うこころは礼の本意は、礼は奢に失するは倹にかず、喪は和易に失するは哀戚に如かず」(此夫子所答禮本也。奢、汰侈也。儉、約省也。易、和易也。戚、哀戚也。與、猶等也。奢與儉、易與戚、等倶不合禮。但禮不欲失於奢、寧失於儉。喪不欲失於易、寧失於戚。言禮之本意、禮失於奢不如儉、喪失於和易不如哀戚)とある。また『集注』に「易は、治なり。孟子曰く、其のでんちゅうおさめしむ、と。喪礼に在りては、則ち節文習熟すれば、哀痛惨怛さんだつの実無き者なり。戚なれば、則ち哀を一にして、文足らざるのみ。礼は中を得るを貴ぶ。奢易は則ち文に過ぎ、倹戚は則ち及ばずして質なり。二者皆未だ礼に合せず。然れども凡そ物の理は、必ず先ず質有りて後に文有れば、則ち質は乃ち礼の本なり」(易、治也。孟子曰、易其田疇。在喪禮、則節文習熟、而無哀痛慘怛之實者也。戚、則一於哀、而文不足耳。禮貴得中。奢易則過於文、儉戚則不及而質。二者皆未合禮。然凡物之理、必先有質而後有文、則質乃禮之本也)とある。
  • 『集注』に引く范祖禹の注に「夫れ祭りは其の敬足らずして、礼余り有るよりは、礼足らずして敬余り有るにかざるなり。喪は其の哀足らずして礼余り有るよりは、礼足らずして哀余り有るにかざるなり。礼は之を奢に失い、喪は之をおさむるに失うは、皆本にかえること能わずして、其の末に随うの故なり。礼奢りて備われるは、倹にして備わらざるのまされるにかざるなり。喪おさめて文なるは、いたみて文ならざるのまされるにかざるなり。倹とは物の質、戚とは心の誠なり。故に礼の本と為す」(夫祭與其敬不足、而禮有餘也、不若禮不足而敬有餘也。喪與其哀不足而禮有餘也、不若禮不足而哀有餘也。禮失之奢、喪失之易、皆不能反本、而隨其末故也。禮奢而備、不若儉而不備之愈也。喪易而文、不若戚而不文之愈也。儉者物之質、戚者心之誠。故爲禮之本)とある。
  • 『集注』に引く楊時の注に「礼はこれを飲食に始む。故にそんして抔飲ほういんし、之れ簠簋ほき籩豆へんとうらいしゃくの飾りをつくるは、之を文にする所以なり。則ち其の本は倹のみ。喪は以て径情して直行す可からずして、之がさい哭踊こくようの数を為すは、之を節する所以なり。則ち其の本はいたむのみ。周衰え、世方に文を以て質を滅す。而して林放独り能く礼の本を問う。故に夫子之を大として、之に告ぐるに此を以てす」(禮始諸飮食。故汙尊而抔飮、爲之簠簋籩豆罍爵之飾、所以文之也。則其本儉而已。喪不可以徑情而直行、爲之衰麻哭踊之數、所以節之也。則其本戚而已。周衰、世方以文滅質。而林放獨能問禮之本。故夫子大之、而告之以此)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「然り聖人の道は、倹をたっとびて奢りを悪む。其の世をおさめ民をおさむるに、常に盈満えいまんを戒めて、退損に従う。礼を以て教えを為すと雖も、必ず倹を以て本と為す。其の言、中に及ぶ者甚だ少なし。蓋し倹は以て礼を守る可くして、中は則ち執り守る可からざるを以てするなり」(然聖人之道、尚儉而惡奢。其經世理民、常戒盈滿、而從退損。雖以禮爲教、而必以儉爲本。其言及中者甚少。蓋以儉可以守禮、而中則不可執守也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「礼は其の奢らんより寧ろ倹せよ。喪は其の易ならんより寧ろ戚せよは、蓋し古語。孔子ただちに其の本を語せずして此れを引くは、放をして思うて之を得しむるなり。孔子の教え皆しかり。何を以てか其の古語たるを知る。答えと問いと正に相あたらざればなり。……言うこころは先王の礼を制せしは、以て民を安んずることを求むとなり。仁者は物を愛すとは、其の用を節して民を傷つけざることを謂うなり。今、林放苟くも君子は時有ってか倹と戚とに取るを知り、而して以て之を求めんことを思わば、則ち先王の礼を制する所以の意は仁に在ることを知らん。是れ所謂もとなり。是れ林放が本を問うことの大いなりと為す所以なり。宋儒は字義にくらくして道を知らず、乃ち文質を以て之を釈す。あやまりの大いなる者なり」(禮與其奢寧儉。喪與其易也寧戚、蓋古語。孔子不直語其本而引此、使放思而得之。孔子之教皆爾。何以知其爲古語。答與問不正相値也。……言先王之制禮、求以安民也。仁者愛物、謂其節用而不傷民也。今林放苟知君子有時乎取儉與戚、而思以求之、則知先王所以制禮之意在仁焉。是所謂本也。是林放問本之所以爲大也。宋儒昧乎字義而不知道、乃以文質釋之。謬之大者也)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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