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為政第二 10 子曰視其所以章

026(02-10)
子曰、視其所以、觀其所由、察其所安、人焉廋哉、人焉廋哉。
いわく、もちうるところところやすんずるところさっすれば、ひといずくんぞかくさんや、ひといずくんぞかくさんや。
現代語訳
  • 先生 ――「人はそのしわざを見、いきさつをながめ、思わくをさとられたら、かくそうにも、かくせはしまいて。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「人の善悪ぜんあく正邪せいじゃ鑑定かんていするには、まずそのこうの善悪をるのだが、その外形だけでは本当のところがわからないから、さらにその動機をる。しかしそれでもまだ不十分だ。今一つ立ち入って果してその行為に安んじ楽しんでいるかどうかを察するならば、その人物がスッカリわかる。かくせるものか、隠せるものか。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「人間のねうちというものは、その人が何をするのか、何のためにそれをするのか、そしてどのへんにその人の気持の落ちつきどころがあるのか、そういうことを観察してみると、よくわかるものだ。人間は自分をごまかそうとしてもごまかせるものではない。決してごまかせるものではない」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 視其所以 … 其の人の行いを注意してよく観察する。
  • 以 … 行動する。「もち(用)うる」と訓読する説、「(為)す」と訓読する説とがある。
  • 視 … 注意してよく観察する。
  • 視其所以 … 其の人の行いの動機を広く観察する。
  • 観 … 広く詳らかに観察する。
  • 由 … 「これまでの経歴」と解釈する説、「行為の原因・動機」と解釈する説とがある。
  • 察其所安 … 其の行いの結果に安心しているかどうか、心の中までより詳しく観察する。
  • 察 … 心の中までより詳らかに観察する。
  • 焉~哉 … 「いずくんぞ~や」と読み、「どうして~であろうか(いや~でない)」と訳す。反語形。「安~哉」に同じ。
  • 廋 … 隠す。
補説
  • 『注疏』に「此の章は人を知るの法を言うなり」(此章言知人之法也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 視其所以 … 『集解』の何晏の注に「以は、用なり。言うこころは其の行用する所を視るなり」(以、用也。言視其所行用也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此の章は人を観知するの法を明らかにするなり。以は、用なり。其は、彼の人を其とするなり。若し彼の人の行を知らんと欲せば、当に先ず其の即日の行い用うる所の事を視るべきなり」(此章明觀知於人之法也。以用也。其其彼人也。若欲知彼人行、當先視其即日所行用之事也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「以は、用なり。其の行い用うる所以を視るを言う」(以、用也。言視其所以行用)とある。また『集注』に「以は、為なり。善を為す者は君子たり、悪を為す者は小人たり」(以、爲也。爲善者爲君子、爲惡者爲小人)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 観其所由 … 『集解』の何晏の注に「由は、経なり。言うこころは其の経従する所を観るなり」(由、經也。言觀其所經從也)とある。また『義疏』に「由とは、経歴なり。又た次いで彼の人の従り来たりて経歴する所の処の故事を観るなり」(由者經歷也。又次觀彼人從來所經歷處之故事也)とある。また『注疏』に「由は、経なり。其の経従する所を観るを言う」(由、經也。言觀其所經從)とある。また『集注』に「観は、視に比せばつまびらかと為す。由は、従なり。事、善を為すと雖も、而して意のりて来たる所の者、未だ善ならざること有れば、則ち亦た君子たるを得ず。或ひと曰く、由は、行なり。其の為す所を行う所以の者を謂うなり」(觀、比視爲詳矣。由、從也。事雖爲善、而意之所從來者、有未善焉、則亦不得爲君子矣。或曰、由、行也。謂所以行其所爲者也)とある。
  • 察其所安 … 『義疏』に「察は、心にいだき之を忖測するを謂うなり。安は、意気の之に帰向するを謂うなり。言うこころは或いは外迹に避くる所有りと雖も、而れども行用するを得ずして、心中は猶お趣向安定しかたちあらわす者は、当に審察しんさつして以て之を知るべきなり。然るに用うるに在りては視と言い、由には観と言い、安には察と言うことは、各〻ゆえ有るなり。視は、直に視るなり。観は、広くるなり。察は、沈吟して心を用いて之を忖度するなり。即日に用うる所は見易し、故に視と云う。而して従来経歴する処は、此れ即ち難しと為す、故に観と言う。情性の安んずる所は、最も深隠なりと為す、故に察と云うなり」(察、謂心懷忖測之也。安、謂意氣歸向之也。言雖或外迹有所避、而不得行用、而心中猶趣向安定見於貌者、當審察以知之也。然在用言視、由言觀、安言察者、各有以也。視、直視也。觀、廣贍也。察、沈吟用心忖度之也。即日所用易見、故云視。而從來經歴處、此即爲難、故言觀。情性所安、最爲深隱、故云察也)とある。また『注疏』に「其の安んじ処る所を察するを言うなり」(言察其所安處也)とある。また『集注』に「察は、則ち又た詳らかを加うるなり。安んずとは、楽しむ所なり。由る所善なりと雖も、而れども心の楽しむ所の者、是に在らざれば、則ち亦た偽のみ。豈に能く久しくして変わらざらんや」(察、則又加詳矣。安、所樂也。所由雖善、而心之所樂者、不在於是、則亦僞耳。豈能久而不變哉)とある。
  • 人焉廋哉、人焉廋哉 … 『集解』に引く孔安国の注に「廋は、匿なり。言うこころは人の終始を観れば、いずくんぞ其の情をかくす所有らんや」(廋、匿也。言觀人之終始、安有所匿其情也)とある。また『義疏』に「焉は、安なり。廋は、匿なり。言うこころは上の三法を用いて、以て彼の人の徳行を観験すれば、則ち理必ず尽くすこと在り。故に彼の人安んぞ其の情を蔵匿することを得んや。之を再言するは、深く人情隠す可からざるを明らかにすればなり。故に江熙曰く、言うこころは人誠に知り難し、三つの者を以て之を取れば、識る可きに近きなり、と」(焉、安也。廋、匿也。言用上三法、以觀驗彼人之德行、則在理必盡。故彼人安得藏匿其情耶。再言之者、深明人情不可隱也。故江熙曰、言人誠難知、以三者取之、近可識也)とある。また『注疏』に「廋は、匿なり。焉は、安なり。言うこころは人を知るの法は、但だ其の終始を観察すれば、則ち人いずくんぞ其の情を隠匿する所あらんや。再び之を言うは、情の隠す可からざるを深く明らかにするなり」(廋、匿也。焉、安也。言知人之法、但觀察其終始、則人安所隱匿其情哉。再言之者、深明情不可隱也)とある。また『集注』に「焉は、何なり。廋は、匿なり。重言するは以て深く之を明らかにす」(焉、何也。廋、匿也。重言以深明之)とある。
  • 『集注』に引く程頤の注に「己に在る者もて能く言を知り理を窮むれば、則ち能く此を以て人を察すること聖人の如し」(在己者能知言窮理、則能以此察人如聖人也)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「君の臣に於ける、人の朋友に於けるは、其の倚頼する所、甚だ大なり。択ぶ所を慎しまざる可からず。夫れ人の知り難きは、堯舜も其れ猶おこれめり。……懼れざる可けんや」(君之於臣、人之於朋友、其所倚賴、甚大。不可不愼所擇。夫人之難知、堯舜其猶病諸。……可不懼哉)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「蓋し国君の善悪を知らんと欲する者は、先ず其の用うる所の人のけんを視て、而して大概たいがい知る可きのみ。用うる所賢なれば則ち賢、なれば則ち否。是れ其の至ってやすき者なり。故に視ると曰うなり。次に其の由る所の道術の何如を観る。或いは先王の道、或いは五伯ごはの道、或いはじゅうはくの道、或いは刑名けいめいの道、是れ其の政事民俗を歴観するに非ざれば則ち見る可からざる者なり。故に観ると曰うなり。次に其の心の安佚する所の者の何如を察す。或いは仁義、或いは財利、或いは声色、或いはでんりょう。是れ深く其の君のこうを察するに非ざれば則ち見る可からざる者なり。故にると曰うなり。賢者の君を択び、或いは其の君のために隣国と交わるには、皆以て其の賢否を知らざる可からず。故に孔子之を言う。朱註に視・観・察を、だ以て詳略の分と為すは、字義を知らずと謂う可きのみ」(蓋欲知國君之善惡者、先視其所用之人賢否、而大槩可知已。所用賢則賢、否則否。是其至易見者。故曰視也。次觀其所由之道術何如。或先王之道、或五伯之道、或戎貊之道、或刑名之道、是非歴觀其政事民俗則不可見者。故曰觀也。次察其心所安佚者何如。或仁義、或財利、或聲色、或田獵。是非深察其君行事則不可見者。故曰察也。賢者之擇君、或爲其君與鄰國交、皆不可以不知其賢否。故孔子言之。朱註視觀察、徒以爲詳略之分、可謂不知字義已)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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