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為政第二 2 子曰詩三百章

018(02-02)
子曰、詩三百、一言以蔽之、曰、思無邪。
いわく、三百さんびゃく一言いちげんもっこれおおえば、いわく、おもよこしまし。
現代語訳
  • 先生 ――「うた三百首を、ひっくるめていえば、『ひがまずに』ということじゃ。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「三百篇の詩の内容は種々様々だが、一言で全部をおおいかぶせよというならば、『思い邪なし』ということに尽きる。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    「詩経にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貫く精神は『思いよこしまなし』の一句につきている」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 詩三百 … 『詩経』三百篇。「三百」とは、概数。現今の『詩経』は三百五篇。もともと三百十一篇あったが、そのうちの六篇は題名のみ伝わる。孔子が編集したといわれている。ウィキペディア【詩経】参照。
  • 一言 … ひとこと。一句。
  • 蔽 … (『詩経』全部の性質を)おおい尽くす。「蓋」に同じ。ここでは、ひとまとめにする。ひとことで言い尽くすこと。
  • 思無邪 … 思いに邪念がない。『詩経』魯頌・けいの詩に「おもうことよこしま無し、馬のここかんことをおもう」(思無邪、思馬斯徂)とあるのに基づく。ウィキソース「詩經/駉」参照。なお「思」を助詞とし、「れ邪無し」「ここに邪無し」と訓読することもできる。また、元の詩は馬の素晴らしさをほめたたえる表現として使われている。従って孔子の引用は本来の意味とずれている。これを「断章取義」(詩の一部分を選び出し、原文と関係なく利用すること)という。
補説
  • 『注疏』に「此の章は為政の道は邪を去り正しきに帰するに在るを言う。故に詩の要当の一句を挙げて以て之を言う」(此章言爲政之道在於去邪歸正。故舉詩要當一句以言之)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 詩三百 … 『集解』に引く孔安国の注に「篇の大数なり」(篇之大數也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此の章は、詩を挙げて政を為すに徳を以てするの事を証するなり。詩は即と今の毛詩なり。三百とは、詩篇の大数なり。詩に三百五篇有り。此れ其の全数を挙ぐるなり」(此章、舉詩證爲政以德之事也。詩即今之毛詩也。三百者詩篇大數也。詩有三百五篇。此舉其全數也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「詩篇の大数を言うなり」(言詩篇之大數也)とある。また『集注』に「詩は、三百十一篇。三百者と言うは、大数を挙ぐるなり」(詩、三百十一篇。言三百者、舉大數也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 一言以蔽之 … 『集解』に引く包咸の注に「蔽は、猶お当のごときなり」(蔽、猶當也)とある。また『義疏』に「一言は、思い邪無しを謂うなり。蔽は、当なり。詩は三百篇の多き、六義の広しと雖も、而れども唯だ思い邪無しの一言を用うるのみ。以て三百篇の理に当たるなり。猶お政を為すに其の事乃ち多きが如くなれども、而れども終には徳を以て動かざるに帰するなり」(一言謂思無邪也。蔽當也。詩雖三百篇之多六義之廣、而唯用思無邪之一言。以當三百篇之理也。猶如爲政其事乃多、而終歸於以德不動也)とある。また『注疏』に「蔽は、猶お当のごときなり。古えは一句を謂いて一言と為す。詩には三百篇の多き有りと雖も、一句を挙げて当に其の理を尽くす可きなり」(蔽、猶當也。古者謂一句爲一言。詩雖有三百篇之多、可舉一句當盡其理也)とある。また『集注』に「蔽は、猶お蓋のごとし」(蔽、猶蓋也)とある。
  • 曰、思無邪 … 『集解』に引く包咸の注に「正に帰す」(歸於正)とある。また『義疏』に「此れ即ち詩中の一言なり。言うこころは政を為すの道は、唯だ邪無きのみを思い、邪無きは則ち正しきに帰するなり。衛瓘曰く、正しきを思うと曰わずして、思い邪無しと曰う、正に邪を思う所無きを明らかにし、邪去ることは則ち正しきに合するなり、と」(此即詩中之一言也。言爲政之道、唯思於無邪、無邪則歸於正也。衛瓘曰、不曰思正、而曰思無邪、明正無所思邪、邪去則合於正也)とある。また『注疏』に「此れ詩の一言は、魯頌のけい篇の文なり。詩の体たる、功を論じ徳を頌し、僻を止め邪を防ぐ。大抵は皆正しきに帰す。故に此の一句、以て之に当つ可きなり」(此詩之一言、魯頌駉篇文也。詩之爲體、論功頌德、止僻防邪。大抵皆歸於正。故此一句、可以當之也)とある。また『集注』に「思い邪無しは、魯頌の駉篇の辞なり。凡そ詩の言は、善き者は以て人の善心を感発す可く、悪しき者は以て人の逸志を懲創す可し。其の用は人をして其の情性の正しきを得しむるに帰するのみ。然れども其の言微婉にして、且つ或いは各〻一事に因りて発す。其の直ちに全体を指すを求むれば、則ち未だくの若きの明らかにして且つ尽くす者有らず。故に夫子は、詩三百篇、而して惟だ此の一言のみ、以て其の義を尽くしおおうに足ると言う。其の人に示すの意も、亦た深切なり」(思無邪、魯頌駉篇之辭。凡詩之言、善者可以感發人之善心、惡者可以懲創人之逸志。其用歸於使人得其情性之正而已。然其言微婉、且或各因一事而發。求其直指全體、則未有若此之明且盡者。故夫子言、詩三百篇、而惟此一言、足以盡蓋其義。其示人之意、亦深切矣)とある。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「思い邪無しとは、誠なり」(思無邪者、誠也)とある。
  • 『集注』に引く范祖禹の注に「学者は必ず要を知るを務む。要を知れば則ち能く約を守る。約を守れば則ち以て博を尽くすに足る。経礼三百、曲礼三千、亦た以て一言以て之を蔽う可し。曰く、敬せざるかれ、と」(學者必務知要。知要則能守約。守約則足以盡博矣。經禮三百、曲禮三千、亦可以一言以蔽之。曰、毋不敬)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「論に曰く、仁義礼智、之を道徳と謂う。人道の本なり。忠信敬恕、之を修為と謂う。の道徳に至ることを求むる所以なり。故に道徳を語るには、則ち仁を以て宗と為し、修為を論ずるには、必ず忠信を以て要と為す。夫子は思い邪無きの一言を以て、三百篇の義を蔽うと為す者も、亦た忠信を主とするの意なり。先儒或いは仁を以て論語の要と為し、性善を孟子の要と為し、中を執るを書の要と為し、時を易の要と為す。一経各〻一経の要有りて、相統一せず。聖人の道は、帰を同じくして塗を殊にし、一致にして百慮し、其の言は多端なるが如しと雖も、而れども一以て之を貫くを知らず。然らば則ち思い邪無しの一言は、実に聖学の始めを成して終わりを成す所以なり」(論曰、仁義禮智謂之道德。人道之本也。忠信敬恕謂之修爲。所以求至夫道德也。故語道德、則以仁爲宗、論修爲、必以忠信爲要。夫子以思無邪一言、爲蔽三百篇之義者、亦主忠信之意。先儒或以仁爲論語之要、性善爲孟子之要、執中爲書之要、時爲易之要。一經各有一經之要、而不相統一。不知聖人之道、同歸而殊塗、一致而百慮、其言雖如多端、而一以貫之。然則思無邪一言、實聖學之所以成始而成終也)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「古えの義を詩に取る者は、亦た唯だ心の欲する所のままにす。だ其れ思うこと邪無き、是れ孔子の心なり。義を詩に取らんと欲する者は、必ず思う所有り。故に思と曰う。後儒情性を以て之を解す。豈に思の字の義ならんや」(古之取義於詩者、亦唯心所欲。祇其思無邪、是孔子之心也。欲取義於詩者、必有所思。故曰思。後儒以情性解之。豈思字之義乎)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
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