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学而第一 5 子曰道千乘之國章

005(01-05)
子曰、道千乘之國、敬事而信、節用而愛人、使民以時。
いわく、せんじょうくにおさむるには、ことけいしてしんあり、ようせっしてひとあいし、たみ使つかうにときもってす。
現代語訳
  • 先生 ――「大きなかまえの国ほど、まともな政治をし、つましくなさけぶかく、人はひまひまに使うこと。」(がえり善雄『論語新訳』)
  • 孔子様がおっしゃるよう、「大国を治めるには、仕事をしんちょうにして人民の信頼を失わぬようにし、むだな費用をはぶいて人民をかわいがり、人民をちょうようするにもその時を考える――ことに農民については農閑のうかんの時をえらんで農作をさまたげない――ことが大切じゃ。」(穂積重遠しげとお『新訳論語』)
  • 先師がいわれた。――
    せんじょうの国を治める秘訣が三つある。すなわち、国政の一つ一つとまじめに取組んで民の信を得ること、できるだけ国費を節約して民を愛すること、そして、民に労役を課する場合には、農事の妨げにならない季節を選ぶこと、これである」(下村湖人『現代訳論語』)
語釈
  • 千乗之国 … 千乗は、兵車(戦車)千台。乗は、車を数える単位。一乗は、馬四頭で引いた兵車一台のこと。兵車一乗に甲士(甲冑をつけた兵士)三人、歩卒(歩兵)七十二人がつくという。転じて、兵車千乗を出し得る大国、諸侯の国のこと。また、天子は兵車万乗を出し、卿大夫は百乗を出すという。
  • 道 … 導く。指導する。治める。「治」に同じ。
  • 事 … 政治上の事柄。政事。宮崎市定は「事はここでは政府の行う事業で、戰爭も、演習も、土木工事も、國の祭祀も、諸侯の遊獵もみな事であり、その凡ては人民の負擔でないものはない」と言っている(『論語の新研究』164頁)。
  • 用 … 国の費用。
  • 使 … やくを課す。
  • 時 … 農閑期などを指す。
補説
  • 『注疏』に「此の章は大国を治むるの法を論ずるなり」(此章論治大國之法也)とある。『論語注疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 道千乗之国 … 『春秋穀梁伝』文公十四年に「ちょうこく五百乗」とあり、その注に「長轂は兵車なり、四馬を乗と曰う。一乗は甲士三人、歩卒七十二人。五百乗は合わせて三万七千五百人」(長轂兵車、四馬曰乘。一乘甲士三人、步卒七十二人。五百乘合三萬七千五百人)とある。ウィキソース「春秋穀梁傳註疏/卷11」参照。また後漢の張衡「東京の賦」(『文選』巻三)に「万乗のおそれ無きと雖も、猶お一夫にじゅつてきせり」(雖萬乘之無懼、猶怵惕於一夫)とあり、その注に「万乗は、天子なり」(萬乘、天子也)とある。ウィキソース「昭明文選/卷3」参照。また公冶長第五7に「百乗の家」(百乘之家)とあり、『集注』に「百乗は、卿大夫の家」(百乘、卿大夫之家)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『集解』に引く馬融の注に「導とは、之の為に政教するを謂うなり。司馬法に、六尺を歩と為し、歩百を畝と為し、畝百を夫と為し、夫三を屋と為し、屋三を井と為し、井十を通と為し、通十を城と為す。城は革車一乗をいだす。然らば則ち千乗の賦は、其の地千城なり、居地は方三百一十六里有。唯だ公侯の封のみ乃ち能く之を容れ、大国の賦と雖も亦た是れこれに過ぎず」(導、謂爲之政教也。司馬法、六尺爲歩、歩百爲畝、畝百爲夫、夫三爲屋、屋三爲井、井十爲通、通十爲城。城出革車一乘。然則千乘之賦、其地千城也、居地方三百一十六里有奇。唯公侯之封乃能容之、雖大國之賦亦不是過焉)とあり、また包咸の注に「導は、治なり。千乗の国なる者は、百里の国なり。古者いにしえ井田は、方里を井と為す。井十を乗と為し、百里の国は、千乗にかなうなり」(導、治。千乘之國者、百里之國也。古者井田、方里爲井。井十爲乘、百里之國、適千乘也)とあり、何晏の注に「馬融は周礼に依り、苞氏は王制・孟子に依る。義疑う、故に両つながらこれを存するなり」(馬融依周禮、苞氏依王制孟子。義疑、故兩存焉也)とある。『論語集解』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『義疏』に「此の章は、諸侯の為に大国を治むるの法を明らかにするなり。千乗は大国なり。天子は万乗、諸侯は千乗なり。千乗尚おもちいれば、則ち万乗知る可きなり。導は、猶お治のごときなり。亦た之が政教を為すことを謂うなり。其の法下に在り、故に此れは張本なり」(此章明爲諸侯治大國法也。千乘大國也。天子萬乘、諸侯千乘。千乘尚式、則萬乘可知也。導、猶治也。亦謂爲之政教也。其法在下、故此張本也)とある。『論語義疏』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。また『注疏』に「馬融以為えらく、道は之が政教を為すを謂う、と。千乗の国は公・侯の国、方五百里、四百里なる者を謂うなり」(馬融以爲、道謂爲之政教。千乘之國謂公侯之國、方五百里、四百里者也)とある。また『集注』に「道は、治むるなり。千乗は、諸侯の国、其の地兵車千乗をいだす可き者なり」(道、治也。千乘、諸侯之國、其地可出兵車千乘者也)とある。『論語集注』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 道 … 『義疏』では「導」に作る。
  • 敬事而信 … 『集解』に引く包咸の注に「国をおさむる者は、事を挙ぐるには必ず敬慎あり、民に与うるには必ず誠信あるなり」(爲國者、舉事必敬愼、與民必誠信也)とある。また『義疏』に「此れ以下、皆千乗の国をおさむるの法なり。人君たる者、事に小大無し。ことごとすべからく敬すべし。故に事を敬すと云うなり。曲礼に云う、敬せざることかれとは、是れなり。又た民と必ず信あり、故に信と云うなり」(此以下、皆導千乘之國法也。爲人君者、事無小大。悉須敬。故云敬事也。曲禮云、毋不敬、是也。又與民必信、故云信也)とある。また『集注』に「敬とは、一を主としてくこと無しのいいなり。事を敬して信とは、其の事を敬して民に信あるなり」(敬者、主一無適之謂。敬事而信者、敬其事而信於民也)とある。
  • 節用而愛人 … 『集解』に引く包咸の注に「節用は、奢侈ならず。国は民を以て本と為す。故に愛養するなり」(節用、不奢侈。國以民爲本。故愛養也)とある。また『義疏』に「富みて一国の財有りと雖も、而れども奢侈す可からず。故に用を節すと云うなり。貴くして民の上に居ると雖も、驕慢す可からず。故に人を愛すと云うなり」(雖富有一國之財、而不可奢侈。故云節用也。雖貴居民上、不可驕慢。故云愛人也)とある。
  • 使民以時 … 『集解』に引く包咸の注に「民を作使するには、必ず其の時を以てし、農務を妨奪せざるなり」(作使民、必以其時、不妨奪農務也)とある。また『義疏』に「民を使うは、城及び道路を治むるを謂うなり。時を以てすは、いだすに三日を過ぎずして、民の農務を妨奪せざるを謂うなり。然して人は是れ有識の目、人を愛すは、則ち朝廷を兼ぬるなり。民は是れ瞑闇の称、之を使うは、則ち唯だ黔黎けんれいを指す」(使民、謂治城及道路也。以時、謂出不過三日、而不妨奪民農務也。然人是有識之目、愛人、則兼朝廷也。民是瞑闇之稱、使之、則唯指黔黎)とある。黔黎は、人民。庶民。また『集注』に「時は、農隙の時を謂う。言うこころは国を治むるの要は、此の五者に在り。亦た本を務むるの意なり」(時謂農隙之時。言治國之要、在此五者。亦務本之意也)とある。
  • 『注疏』に「言うこころは政教を為して以て公・侯の国を治むる者は、事を挙ぐるに必ず敬慎なるべく、民のために必ず誠信なるべく、財用を省節して、奢侈せず、而して人民を愛養し、以て国の本と為し、事をおこし民を使うには、必ず其の時を以てし、農務を妨奪せざるべし。此れ其の政を為し国を治むるの要なり。包氏以為えらく、道は、治なり、と。千乗の国は、百里の国なり。夏には即ち公・侯、殷・周には惟だ上公のみなり。余は同じ」(言爲政教以治公侯之國者、舉事必敬愼、與民必誠信、省節財用、不奢侈、而愛養人民、以爲國本、作事使民、必以其時、不妨奪農務。此其爲政治國之要也。包氏以爲、道、治也。千乘之國、百里之國也。夏即公侯、殷周惟上公也。餘同)とある。
  • 『集注』に引く程顥または程頤の注に「此の言至って浅し。然れども当時の諸侯果たして此を能くせば、亦た以て其の国を治むるに足るなり。聖人の言至って近しと雖も、上下皆通ず。此の三言は、若し其の極を推せば、堯舜の治も、亦た此に過ぎず。常人の近きを言うがごときは、則ち浅近なるのみ」(此言至淺。然當時諸侯果能此、亦足以治其國矣。聖人言雖至近、上下皆通。此三言者、若推其極、堯舜之治、亦不過此。若常人之言近、則淺近而已矣)とある。
  • 『集注』に引く楊時の注に「上敬せざれば則ち下おごり、信ならざれば則ち下疑う。下慢りて疑えば、事立たず。事を敬して信とは、身を以て之を先んずるなり。易に曰く、節以て度を制すれば、財を傷わず、民を害せず、と。蓋し用をほしいままにすれば則ち財を傷い、財を傷えば必ず民を害するに至る。故に民を愛するには、必ず用を節するを先にす。然れども之を使うに其の時を以てせざれば、則ち本を力むる者、自ら尽くすことを獲ず。人を愛するの心有りと雖も、人其の沢を被らず。然れども此れだ其の存する所を論ずるのみ。未だ政を為すに及ばざるなり。し是の心無ければ、則ち政有りと雖も行われず」(上不敬則下慢、不信則下疑。下慢而疑、事不立矣。敬事而信、以身先之也。易曰、節以制度、不傷財、不害民。蓋侈用則傷財、傷財必至於害民。故愛民必先於節用。然使之不以其時、則力本者不獲自盡。雖有愛人之心、而人不被其澤矣。然此特論其所存而已。未及爲政也。苟無是心、則雖有政不行焉)とある。
  • 『集注』に引く胡寅の注に「凡そ此の数者、又た皆敬を以て主と為す」(凡此數者、又皆以敬爲主)とある。
  • 『集注』に「愚おもえらく、五者反復相因りて、各〻次第有り。読者宜しく細かに之を推すべし」(愚謂、五者反復相因、各有次第。讀者宜細推之)とある。
  • 伊藤仁斎『論語古義』に「事を敬して信なりとは、民事を敬慎して、信以て下に接するなり。人とは、臣・民に通じて言う。……千乗の国を治むる、其の事まことに難くして、其の功最も大なり。然れども此を以て本と為さば、則ち亦た治め難き者無からん。即ち孟子の所謂事は易きに在りの意なり」(敬事而信者、敬愼民事、而信以接下也。人、通臣民而言。……治千乘之國、其事固難、而其功最大矣。然以此爲本、則亦無難治者。即孟子所謂事在易之意)とある。『論語古義』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
  • 荻生徂徠『論語徴』に「敬するは皆天を敬し鬼神を敬するに本づく。其の敬する所無くして敬する者は未だ之れ有らざるなり。朱子は敬の工夫をはじむ。是れ敬する所無くして敬する者なり。自ら無為なりと謂う、余を以て之を観るに、亦たへいなるのみ」(敬皆本於敬天敬鬼神。其無所敬而敬者未之有也。朱子創敬工夫。是無所敬而敬者也。自謂無爲、以余觀之、亦病耳)とある。『論語徴』(国立国会図書館デジタルコレクション)参照。
学而第一 為政第二
八佾第三 里仁第四
公冶長第五 雍也第六
述而第七 泰伯第八
子罕第九 郷党第十
先進第十一 顔淵第十二
子路第十三 憲問第十四
衛霊公第十五 季氏第十六
陽貨第十七 微子第十八
子張第十九 堯曰第二十